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〈短編小説〉ヨシカワの話(後編)

この小説は
「【note創作大賞2024】スカートとズボンの話」のスピンオフ作品です。
「スカートとズボンの話」第1回とあらすじはこちら ↓

前編はこちら



 リョウさんが何気なく言った「最後まで行った」の意味は、すぐにわかった。

「すごく興奮しているんだけど、本当にあの華なのかな、って信じられないような、不思議な気持ちだった」

 東京での記憶をずっと頭から追い出していたリョウさんが、どこかに残っていた「華さん」との記憶を、ひとつひとつ取り出している。

 淡々と話すリョウさんはしかし、どこか夢を見ているようだった。


「華は、なんだか危なっかしかった」

 リョウさんはいちどまばたきをして、言葉を探した。

「何かしよう、近づこう、と思うと、華がほんの少し先に、俺にふれてくる。多分華は、そうしてるつもりなんてない。でも本当に少しだけ、先なんだ」

「それが、すごく危なっかしくて。どうしようもなく、心臓がバクバクした」

 リョウさんは、小さく息をついた。
「ああ華はこんな人だったんだ、って、その度に思った」

 リョウさんは、少しだけ苦しそうに見えた。


 俺にはリョウさんの言う「危なっかしい」が、よくわからなかった。そして、言うつもりのなかったことを口に出した。

「俺、リョウさんがキスしてるの見たことあるんです。大通りの裏手で」


 以前、街なかで、リョウさんが知らない女と抱き合っているのを見たのだ。1本入った裏通りの、電柱に寄りかかって。

 あまり背の高くないリョウさんの首や髪に指をからめ、女はやたら熱心に何度もキスをしていた。リョウさんは、女のひらひらしたワンピースの腰や背中を優しくなで、それを受け入れていた。

「いつ?」

 リョウさんの問いかけは、誰と? と聞いているかのようだった。リョウさんが女を連れているのは、珍しいことではなかった。かなり派手なタイプだったりカジュアルなタイプだったり、女の雰囲気はその時によってばらばらだった。

「1年くらい前です」

リョウさんは、そっか、と2,3度頷いた。
「お恥ずかしいところを」

 たいして恥ずかしくもなさそうに、リョウさんは言った。どこか、興をそがれたようにも見えた。

「その時の女性が、すごく積極的だったんです。あれも相当、危なっかしかった」

 リョウさんは、うーん、とうなって笑った。
「あんまり、考えたことないな」


 外はいっそう、雨が強くなってきた。

「華さんもきっと、リョウさんが好きだったんですよね」

「よく、わからないんだよ」
 リョウさんは、笑って首をかしげた。


 そもそも、最初にどうして俺を飲みに誘ったのかがわからない。
 仕事でヘロヘロになってた頃だぜ。普通誘わないよ。避けるよ。

 それがなぜだか誘って、酔っぱらって気分がよくなって最後まで行って、そのまま付き合っただけじゃないのかなって。

 俺は全然、それでもかまわないんだ。だって俺が好きになったきっかけが、さっき言ったあんなことだったんだから。

 恋愛って、そんなものだよ。
 恋愛って呼ばれてるきれいな包み紙を、はがして皮をむいて、いちばん芯にあるのは、欲求。
 生き物なんだから、皆。


 俺はまた、話すつもりのなかったことを話したくなった。

「俺今、昔の彼女と会ってるんです」


 俺が結婚を控えていることは、身近な人は皆知っている。もちろんリョウさんも。婚約者である今の彼女を、この「BLUE OCEAN」に連れてきたこともある。

 リョウさんは、黙って頷いた。

「会うだけじゃない、何度かセックスしました」

「来週も会います。それで多分、また。気がついたらそのことばっかり、考えてる」


 今の彼女は、結婚相手として申し分がない。
 両親、祖父母、親戚筋、異様に面倒くさい俺の実家の人たちを皆納得させられる、稀有な女性だ。

 昔の彼女は、そんな器ではなかった。もし実家に連れていったなら、たちまち全員の反対を食らうことは予想できた。

 それでも俺は、彼女が好きだった。結婚を目前にして彼女がまた俺の前に現れ、頭では何も考えられなくなった。今こうしているときも、考えると、胸が高鳴って指先がしびれるような感覚になる。

 話しながら気がついた。俺は本当は今日、リョウさんにこの話を聞いてもらいたかったのだ。

 リョウさんは、黙って俺と自分のグラスにおかわりを注いだ。そしてゆっくりと飲み干して、グラスを置いた。


「正解は、ないよな」
 リョウさんは、優しい声で言った。

「頭でわかっていてもどうしようもないことって、あるよ。それにお前みたいにいい家の息子だと、俺なんかにはわからない苦労があるんだろ」


「どうしたらいいんでしょうね、俺は」

「正解は、ない」
リョウさんは困ったように笑って首を振った。

「なんならどっちも不正解かもしれないぞ、タカヒロ」

やめてくださいよ、と俺は両手で顔を覆った。力ない笑いがもれた。


「結婚って、大変だよな。まあ、経験のない俺には何も言えないけどさ」

 俺は、えっ、と顔を上げた。
 リョウさん、だって、マヤさんは。

「俺は、戸籍上はずっと独身だよ。俺の戸籍にいるのは、ソウタ1人」

 驚いた。そんなことは、誰も知らないのではないか。


「ソウタができた時、マヤは産みたくないって言ったんだ。母親になんか、なりたくないって。それを頼み込んで、産んでもらった。俺は、子どもがほしかったから。父親になって、子どもを育ててみたかったんだ」

 まあ、本当に俺の子かっていう不安も、なくはなかったけどな。
 当時は割と真に迫っていたであろう話を、リョウさんは冗談まじりに言った。
 ソウタは、リョウさんによく似ている。

「だから俺は、マヤに母親の役割をしてほしいなんて、思ったことがないんだよ。何年か前に追い出された時は、さすがに驚いたけどさ」

 リョウさんとマヤさんの不思議な関係の謎が、少しだけ解けた気がした。


 そうだ、俺わかったぞ、とリョウさんは急に声を発した。

「単筒とか複筒って、役割だったんだな」

 男が女に求める、役割。いや男がっていうより世の中が、だな。
 リョウさんは言った。

「役割だけ求められて生きるのは、きついよな。女もだけど、男もさ」



 俺は、「役割」から解放されたいのだろうか。

 昔の彼女の姿と、リョウさんが華さんに言う「危なっかしい」が、急に重なりだした。

 彼女といると、俺の理性や家族を思う気持ち、さまざまなものがぶっ壊されそうになる。

 華さんも、そんな危うさを持った人だったのだろうか。



 リョウさんは、グラスを片付けはじめた。そろそろ家に帰ろう、茶漬けでも作ってやるよ、と言う。リョウさんの家は、ここの2軒隣の借家だ。


 片付けを手伝いながら、俺の脳裏にふいに、1つの光景が浮かんだ。

 放課後の教室の、男子生徒たち。やんちゃなリョウさんと「出木杉」ヒロヤ。ガヤガヤ笑っている、他の男子生徒。

 教室の扉の陰に、「複筒」を穿いた女子生徒がいる。
 華さんだ。
 華さんはこんな風に偶然、リョウさんのめちゃくちゃな話を聞いたんじゃないだろうか。

 リョウさんは、そんなわけはない、と言うだろう。
 あんなことを言ったやつとつきあいたいなんて、思うわけがないだろう、と。

 そうだろうか。
 ショックを受けながらも、華さんはきっと強く、リョウさんを意識しただろう。
 何年か経ってもそれが頭のどこかにあって、リョウさんを誘ったんじゃないか。


 リョウさんにこれを言ったら、どうなるだろう。
 きっと、動揺するだろう。
 華はそんな好き者じゃない、なんて言うだろうか。華さんのことになるとリョウさんはきっと、柄にもなくむきになる。

 俺はこの思いつきを、リョウさんには黙っておこうと思った。


「風、強くなってきたな。足元気をつけろよ」

 リョウさんは、店の明かりを消した。照明の残光が、カウンターを静かに照らしている。


おわり


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