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小説「昭和四十九年のバレンタイン」#青ブラ文学部

(1200字)

水鳥みずどりに行っておいで」
母ちゃんに、いつものお使いを頼まれた。
お使い先は「バー水鳥」。瑞江みずえさんという人の店だ。

母ちゃんはいつも、決して瑞江さんの名前を口にしない。
2人が顔を合わせるのも、見たことがない。
2つ上の姉ちゃんも瑞江さんが大嫌いだから、水鳥へのお使いはいつも僕の仕事だ。

僕らが住む街には、大きな川が流れている。いくつもの橋がかかっていて、大勢の人がひっきりなしに往来する。
一つの橋のたもとにある大きな旅館が、僕の家だ。

旅館のあるじである僕の父ちゃんは、橋の向こうに「めかけ」を住まわせている。瑞江さんだ。

旅館に住み込みで働いている女中さんが昔言った。
「あんな一衣帯水いちいたいすいの地にお妾をかこうなんて、大旦那はどうかしてるよ。女将さんをなんだと思ってるんだ」
偶然それを聞いた僕は「オメカケって何?」と女中さんに聞いた。
女中さんは側にいた番頭さんにひっぱたかれて、あれこれ誤魔化しながらそそくさとその場を去った。幼稚園くらいの頃だ。


僕はいつものように、中身のよくわからない封筒を持って橋を渡った。最近気に入っている、チューリップの「心の旅」を口ずさみながら。

「ぼん、ご苦労様」
瑞江さんは、カウンター越しに僕を迎え入れ微笑んだ。僕のことをいつもこう呼ぶ。
少しだけかすれた、とても静かな声。低いけど、男の声とは全く違う。

今日は長い髪を結いあげ、着物を着ている。ざらりとした灰色の「大島」という着物。
母ちゃんも持っているけど「大島なんて地味すぎるよ。着たら顔がくすんじまう」と言って着ない。色白でどこか寂しい顔立ちの瑞江さんには、よく似合っていた。

封筒を渡す僕に、瑞江さんは「ありがとう」と微笑んだ。笑うと大きなえくぼが出る。

「父ちゃん今、営業で東京に行っているんだ。1週間くらい帰ってこない」
「あら、そうなの」
何気ない風に答えた瑞江さんは、カウンターの隅に目をやった。赤いリボンがかかった、黒くて細長い箱がある。

今日はバレンタインデーだ。きっと、父ちゃんに渡そうと思っていたんだ。

「……父ちゃん帰ったら渡しておく?」
瑞江さんは笑った。
「子どもが何言ってるんだよ」

でも、と瑞江さんは僕に向き直った。
「ぼんも4月から中学生だね」

そして、黒い箱を僕に差し出した。
「持っていきな。ぼんにプレゼントだよ」
瑞江さんはそう言って、僕の頭をなでた。
この人は笑っていてもなぜだかずっと、寂しそうだ。


帰り道、橋の欄干にもたれて黒い箱を開けた。瓶の形をしたチョコの、赤い銀紙をもどかしく開け、口に放り込む。
噛むとじゃりっと砂糖の感触がして、苦くて熱い液体が喉の奥に流れた。

「……酒入ってんじゃねえかよ」
僕は甘くて苦いそれを、無理やり飲み込んだ。

橋の向こうに僕の家が、旅館が見える。帰ると母ちゃんが大きな声で「おかえり」と僕を迎えるだろう。

橋の下には、2月の冷たい川が滔々と流れている。
瑞江さんの寂しそうな顔を頭から追いやって、僕は歩き出した。


〈終〉


山根あきらさん企画「青ブラ文学部」に参加します。
いつも企画ありがとうございます✨

お題は「一衣帯水の地のバレンタイン」。

この話は、故郷で聞いた昔の噂がもとになっています(細かいエピソードは創作ですが)。あそこのご主人が、橋を渡ってすぐの所にお妾さんを住まわせていたらしい……と💦

「一衣帯水」の意味を知って、すぐさまこの話を思い出しました。
野蛮でビタースイートな、昭和の空気感が表現できていればいいなと思います。


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