「今、此処に在ることに感謝」 #49
人類史を遡ると、それが生命の宿命であるかの如く、争いの日々が繰り返されている。
そこには共存ではなく淘汰があり、淘汰こそが共存であるという矛盾な状態にある。
自分事だけでいえば、いがみ合ったり、争いあったりするよりも、共に手を取り合い笑顔で生活した方がより人生を謳歌できるのではないかと、理想主義的なことを簡単に発してみるが、
そんなことを思ったところで、世界を見渡せば人が人を殺し、人が人を傷つけ、人が人を蹴散らかすようなことが日常茶飯事で起きているのが現状だ。
冷静に考えれば、何故?
と思うのだが、勿論その渦中にいてそんなこと思えるかというと難しいことも理解できる。
なぜなら、生きることに必死でそれどころではないからだ。
世界に目を向けなくとも、私自身の身の回りを見渡してみたところで、お花畑の中に生きている人は非常に少ない。
やはり皆、なにかと闘っているし、なにかに怯えていたりもする。
街を歩けば、一定数の距離を置き、助け合いという土壌にはない。
楽しく生きるのと、苛立ちながら生きるのでは、絶対的に前者の方がいいに決まっているのに、
そんな単純な正解を目の前にしても、やはり日常という生活に戻ると、楽しく助け合いながら生きよう!ということにはならないのは面白い。
勿論、全人類LOVE&PEACEだろっ!などど安っぽい言葉だけで終わらせるつもりはない。
この謎を解かない限りは、今日も明日も明後日も、結局のところ世界は前進しないからである。
では、何故楽しい方がいいと分かっていながらも、楽しむことと違う感情を抱こうとするのか。
人類が生誕した時には、人類の敵は周りの動物だったに違いない。
圧倒的な力の差があるからこそ、人間同士は手を取り合って、生きるために協力していたに違いない。
そして、縄張りを作り、社会を作り、地域を作り、国を作り、人種を作った。
そこからその枠組みの中での所有や略奪という概念が生まれたのであろう。
それが背景にあると思うと、それを守るがための敵対心みたいなものが育つということは容易に想像がつく。
その遺伝子が今もなお語り継がれているといわれればそれまでなのだが、
時代は所有から共有の時代に遡りつつある。
共有の時代に必要なことは、いかに互いが信頼感の中に生きることが出来るかということ。
そこで人を傷つける人はやはり除外しなくてはいけなくなる。
しかし、除外という概念が生まれた時点で、それは枠組みの再編成であって、決して全人類LOVE&PEACEとは異なる。
つまり極限的には、今隣にいる知りもしない人すらとも信頼を保ち、楽しみを分かち合えることが出来ない限り、そこにはやはりある種の境界線が生まれ、所有や略奪という世界の一つになってしまうということだ。
そう考えると、一斉に互いを信頼できる奇跡的なことが起きない限り、私は信用するが、あなたはしていないという構図になり、その亀裂が少しずつ膨らみ、また所有と略奪という世界に舞い戻ってしまう。
こう考えると、全人類LOVE&PEACEがいかに難しいかが分かる。
ただ、難しいからといって諦めてしまっては、面白みがない。
この無謀ともいえる挑戦をするのとしないのどちらが楽しいの?と問われれば、挑み続けた方が楽しいに決まっているではないか!
共に手を取り合い笑顔で生活した方がより人生を謳歌できる!
これを証明するには、まずは自らがその在り方を極めなくてはならない。
そう、己の在り方なくして、理想は語れない。