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「今、此処に在ることに感謝」 #4
人はその置かれた環境によって思考が変わる。
これは人と適合することで集団を作り、生命存続させてきた人間の習性だろう。
例えば、狩猟民族の中に農耕民族が溶け込むのは至極難しいことだし、
逆に農耕民族の中に狩猟民族が溶け込むのも然りである。
これはどちらが正しくてどちらが間違いということではなく、在り方の問題である。
だからこそ、前提条件が違う相手に対してあれやこれや言うのは間違いであると言えるのだが、
そのような住み分けがされずごっちゃになってしまっていることで、価値観が合わない人とでも交わらなくてはいけないことが、この社会の弊害の多くを作っているように思う。
それは社会規模が大きくなるにつれ必要悪でもあったわけで、その弊害なくしてここまでの人間社会の文明開化というのは起こっていなかったであろう。
しかし、インターネットによる物理的距離に対する進化というのは、そのような交わりを持たずとも生きていける道というのを可能にした。
これはとても画期的であっていいことしかないように思えるが、一方で教養なき民たちのコミュニティを成熟させるという危険要素を孕んでいる。
今までは、違ったコミュニティ同士でも社会生活においては交わらなければならないが故にマイルドさが生まれ、それによって多少中和されてきたわけだが、これからの社会というのはその中和度が薄まる。
だからこそ置かれている環境によって非常に過激にならないとも限らない。
少し抽象的で大きいスケールの話をすると、
正義 VS 悪
というと、往々にして悪の方がパワーが強いように思う。
映画やドラマ、アニメなどにおいては正義は勝つというテーマで最終的には正義が勝つっしょ!みたいなストーリー展開になるが、
格闘技みたくルールが決められていないストリートファイトでは悪逆無道な立場の方が問答なしで強い。
なぜイエスキリストやお釈迦様、孔子が神格化されるかというと、それくらいに善の道を極めることは難しいからである。
社会生活に落とし込んだときに、周りを見渡してみて、イエスキリストやお釈迦様のような人は何人いるだろうか?ほぼ皆無に近い。
それはそれほどまでに人間を成熟させることが難しいことを示している。
さて初めに話を戻して、
人はその置かれた環境によって思考が変わる。
あなたの今属する環境というのは、快く自分が自分らしく人に優しく穏やかに在れる環境であろうか?