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時刻表がないバス停

日本生活とメキシコ生活で時間に対しての認識、概念が違う。っとメキシコで住んでみて、メキシコから日本を見て思う。

なんだろう、メキシコの時間は、なんだかゆる〜く伸びている。笑
メキシコ人からしたら"普通"なのだろうけど、4年前、東京でせかせかと働いていた私が急にメキシコに行くことになり、メキシコに来てからは"時間"というものが、びよ〜んっと伸びていったように感じている。

メキシコに来てから街なかを走っているコンビ(バス)の時刻表を見たことがない。
バス停で待っていたらいつかくる。(来ないこともある)
それは、今わたしにとって当たり前なのだけど、ふっとバス停を見て、時刻表のないバス停がなんとも不思議な場所に思えた。

東京で毎日電車の時刻を気にしながら暮らしていた自分を思い出した。
日本の時間の正確さ、分単位で正確に管理された社会。今考えると、自分の時間感覚を見失って、明らかに余裕がなかった。正確な社会に自分の生活が回されていたような感じ。

時間が正確なのが悪いわけではない。友達と待ち合わせするとき、時間を伝えることができ、待たせることもなく相手の時間を尊重できる。きっと元々の日本人の時間の正確さは"相手のことを大切に思う気持ち"からなんじゃなかろうか。相手のことを思う気持ちも大切。

でも、もっとわたしの中の時間を大切に、わたしを大切に。

時刻表がないバス停。
時には不便さもなかなか良い。

意識の仕方を変えればどこでも自分らしく暮らせるのだろう。

メキシコ暮らしは意識の気づきや発見がごろごろ。

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