暴力の塩梅
男性が女性を性愛の対象として見るときに、特権的な位置から、モノのように女性を鑑定し選定し、実際モノを扱うように性愛に及ぶ(よくても自己の鏡として扱う)のは、より高次の愛の観点からみて、低い営みだと、あるいは搾取的だと批判するのは比較的簡単。
しかし、そのように批判される営みは、歴史が長いゆえに転覆困難であることに加え、そのような営みは男性性の成り立ちに関わっているゆえに転覆困難だということを明確に認識するのは比較的困難。
原理的に転覆困難なものとは、程度を間違えずに付き合うしかない。
性愛関係において、女性をモノのように扱うな!って言っても、ヒトはかなり長い間そのようにしてきたし、そもそも女性を倒錯的に客体(モノ)として見ることで男性性が主体として確立し、性愛が成立する(場合がほとんど)なんだから、そんなことから卒業しようって言っても無理。欺瞞的にごまかしつつ、永遠に留年するほかない。
ルッキズムやエイジズムによる社会的差別を批判する人も(批判は妥当である)、寝室ではそれらと無関係ではいられない。
卒業主義は、タバコ撲滅キャンペーンと同じような欲望と構造に根差していると思われる。あるいは極度の非肉食主義とも似ている。
清潔でありたい、無罪でありたい。
しかしそれはヒトではない。
毒なしにヒトはヒトたりえない。
全ては塩梅の問題。
言い換えれば、女性性をモノのように扱う暴力は社会的に禁じられるべきだが、個人間の性愛関係においては、暴力的な関係(殴ることではない。また、暴力を行使するのは男性に限らない)は排除しきれない。性愛関係は否応なく暴力的だから。
恩恵を享受しつつ、害毒を低減する穏便な管理が望ましい。