「労働を時間で管理する」は「労働時間管理」のまがい物【偽物にご注意ください】
労働基準法や労働安全衛生法などは、企業による従業員の労働時間の管理を義務付けています。ですが、労働を時間で管理しなければならない、というルールはどこにもありません。
しかし現実的には、労働はおおよそ時間で管理されます。
労働を時間で管理する「時間ありき」の発想、誰かに有益なのでしょうか…。
機械の操作者を募集してみましょう
一日に300個作る必要がある製品を、1分で1個製造できる機械が1台あるとします。その機械は1人の操作者が必要です。1人×5時間労働で、ぴったりですね。
さて、その操作者を募集しましょう。募集案①です。
とまあ、これが普通の募集内容です。採用された人は、一日5時間働いて、5000円の賃金を得るでしょう。
さすがに5時間ぶっ通しで機械を操作するのは大変なので、Spotifyでも聴きながら、あるいは、片目づつ寝ながら操作するような器用な人も現れるかもしれません。
ちょっと募集の仕方をかえてみましょう
さて、採用された人は、皆、一日5時間働いて、5000円の賃金を得るでしょうか?
5時間ぶっ通しで機械を操作するのは大変なので、30秒で1個製造できるように、ちょちょいと機械を改造できる技術を持った人が現れるかもしれません。予め機械に関する知識や技術がなくても、勉強して技術を身に着けたり、ネットで機械の改造方法を調べたり、機械に詳しい友人に相談するなどし、ちょちょいと改造するかもしれません。
30秒で1個製造できるように改造すれば、一日2時間半の労働になります。5000円の賃金が得られるのに変わりはありません。
募集案①で採用した人は、その環境で、自分がどう快適に過ごせるかを考えます。しかし、どう考えたところで、一日5時間働くことには変わらないため、業務をどうこうしようとは思いません。
一方、募集案②で採用した人は、いかに業務を早く終わらせるかを考えます。それなりの技術や知識を身に着ければ、働く時間はどんどん短縮できます。どれだけ短縮できるかは、その人の能力次第です。
なぜ、時間で縛り続けるのか
そもそも、なぜ「労働」は「時間」に換算されやすいのか、明確な理由はわかりません。産業革命期の“何かしら”が発端になっているだろうことは察しがつきます。
“何かしら”については、この辺りをご参照ください。
例えば、店員や、交通誘導員など、そこにいなければ成り立たない業務では、時間による拘束が必要です。しかし、これだけ業務が多様化した近代で、すべての業務を一律に「時間ありき」で考え続ける必要はないでしょう。
先程の、「1分で1個製造できる機械」を、Excelに置き換えてみてください。
そのまま打ち込んでも、計算式を使っても、マクロを組んでも、みんな5時間勤務で5000円です。違和感ありあり、ではないでしょうか。
無駄が無駄を生む
時間ありきの労働の目的の1つ目は、「時間を費やすこと」です。その時間、働けばよいのです。
いかに楽をしてやるか、の追求が為されるかもしれません。ただ、楽をしてやっていることがバレてしまうと、労働時間が短縮されて賃金が減ってしまったり、業務を増やされる恐れがあるため、表面上は「いっぱいいっぱい」という雰囲気を醸し出す必要があります。
敢えて時間内にやる必要はありません。「やっている感」だけでやり過ごすのが、最も合理的です。むしろ、+αの時間を費やせば、二割五分増しの残業代まで貰えるのでラッキーです。
無駄な時間を費やすための、無駄な駆け引きです。
無限に広がる無駄
時間ありきの労働の目的の2つ目は、「何かをやること」です。
中には、楽をして時間が余ってしまうと、「何か」をやらなければならないと考える人がいます。勤勉で、真面目な日本人ならではです。
つまり、時間ありきの労働の目的は「何かに時間を費やすこと」、になります。
別に時間が余ったなら、コーヒーでもすすりながら、密かにnote(業務改善コラム推奨)やSNSを見ていれば良いものを、何かをやりだします。時間が余ったからやっているだけで、大した目的はありません。ただ、やる以上はそれなりの大義名分は必要で、それが巧妙だと、上司の評価にも繋がります。時には、偶然、成果をもたらすことがあるかもしれません。
しかし本質は、空いた時間を埋めるだけの、もともとやる必要はない業務、つまり、無駄な業務です。生産活動の目的に沿って、本来やるべき業務を考えることは、余った時間でやるものではなく、正当な業務として扱うべきです。
時間ありきの労働は、無駄な業務を無限に生み出します。なかなかうまく説明し辛いですが、時間ありきの労働が、業務を「横」に無限に広げるようなイメージです。
組織は時間を売っていません
時間決めの役務を提供するサービスでは、「時間(あたりの労働力)を売る・買う」という側面があるかもしれません。
しかし、例えば、車を買おうと思ったとき、車を作る時間を買って、車を作らせますか?価格が「時間当たり価格×その車を作るのにかかる時間」とはなってないでしょう。
価格設定の三要素(原価、需要、競合状況)や、利益をもとに決められた金額で買います。原価には、その製品を作るのに何時間掛ったかが多少反映されますが、原価と時間は必ずしもリニアな関係にありません。
原価を抑えれば利益は上がります。だからこそ、原価を抑える不断の努力が行われるのです。
一方で、労働者の原価は「時間」にのみ換算されます。
労働者も、知識や能力を得るなどして、原価=労働時間を抑えることが認められるべきではないでしょうか?
これでは組織は儲かれど、労働者は儲からないのは、当然の結果と言えるでしょう。
まとめ
冒頭の一日に300個作る件ですが、ひょっとすると、アウトソースすれば300個を3000円で手に入れられるかもしれません。
組織は採用するでしょう。
しかし、労働者自身が採用して、労せず2000円を得て済ますことはできません。なぜならば、労働契約が「一日に300個作る」ことではなく、「5時間働くこと」になっているからです。
「時間ありき」は、断然、組織に有益な発想です。
産業革命期の、アウトプットが定型化された単純作業から、なぜかその発想は変わりません。業務が多様化する中でも、それを変えないことが「得」だと考える人が多いから、そうなっているのでしょう。
繰り返しになりますが、「時間ありき」の生産活動の本質は「何かに時間を費やすこと」です。言い換えれば「時間つぶし」です。
労働者は時間を費やすだけ。組織は時間を費やされるだけ。
実は、誰にとっても有益ではないのです。
時間に縛られない業務に掛かる時間はできる限り短縮し、逆に、時間を掛けなければならない業務には、より時間を掛ける。これを進めるためには、まず一律で「時間ありき」とする発想を改める必要があります。
労働基準法や労働安全衛生法が義務付ける「労働時間管理」は、長時間労働による労働者の不利益を防止するもの。「労働を時間で管理する」のではなく、「労働の時間を管理する」ことを義務付けるもので、まったく趣旨が異なるものです。
つまり、労働を時間で管理することは労働時間管理ではなく、また、組織にとっても誰にとっても有益なものではないため、明らかな無駄だと言えます。
労働時間はしっかりと管理しながら、労働は「業務の本質に適った指標」で合理的に管理をしなければ、無限に広がる無駄地獄に陥ってしまいます。
そして、日本では多くの企業が、今まさに陥っていると考えられます。
以下、余談です
実際に成果主義を導入しても生産性に影響しなかった、又は下がった、のような「専門家」の報告を見かけます。ですが、数百年続いてきた時間主義に比べ、成果主義をせいぜい数年テストしたぐらいで、結論は出せないでしょう。
それにしても、生産性に影響しないとは、不思議です。まさか、成果主義だからと言って、わざわざ成果目標を立てるようなことはしていないとは思いますが...。
そんな目標を立てること自体、成果主義の導入意図を蔑ろにして、成果主義の導入そのものを目的としてしまった人が生み出す無駄な業務です。
成果主義だからと言って、無理やり掲げた成果目標が、そもそも無理難題かもしれません。その成果目標が、「だいたい8時間ぐらいかかるだろう」と考えられていたならば、まったくナンセンス。
まずは、今、出ている成果に対して、時間の縛りを排除するだけで良いのです。
それで残業が減らないとすれば、単純に残業代が欲しいのでしょう。給与水準の問題です。
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