[解説]オーウェン・バーンズ・シリーズの魅力(飯城勇三/文、『白い女の謎』に収録)
本書『白い女の謎』で、行舟文化のバーンズ・シリーズの翻訳は完結した。以下にシリーズの作品を挙げてみると――
《長篇》
① Le Roi du désordre(1994)
『混沌の王』(2021)
② Les sept merveilles du crime(1997)
『殺人七不思議』(2020)
③ Les Douze crimes d’Hercule(2001)
未訳
④ La Ruelle fantôme(2005)
『あやかしの裏通り』(2018)
⑤ La Chambre d’Horus(2007)
未訳
⑥ Le Masque du vampire(2014)
『吸血鬼の仮面』(2023)
⑦ La Montre en or(2019)
『金時計』(2019)
⑧ Le Mystère de la Dame Blanche(2020)
『白い女の謎』(2024)(本書)
《短篇》
・La marchande de fleurs(1998)
「花売りの少女」 長篇⑦特典付録
・La Hache(2000)
「斧」 長篇④特典付録
・L'Homme au visage d'argile(2012)
「粘土の顔の男」 長篇②特典付録
・Le Loup de Fenrir(2015)
「怪狼フェンリル」 長篇①特典付録
・Le Casque d'Hadès(2019)
「ハデスの兜」 長篇⑧特典付録
・Le Voleur d'étoiles(2021)
「星を盗む者」 長篇⑥特典付録
未訳が二作残ってはいるものの、快挙と言って良いだろう。私自身、一読者としてこのシリーズは楽しませてもらい、年間ベストなどに選んだことも少なくない。
また、名探偵として見た場合、ツイスト博士よりもバーンズの方が魅力的だった。これが解説者の提灯持ちではないことは、本書と前後して刊行される予定の拙著『名探偵ガイド』(星海社新書)に、ツイスト博士ではなくバーンズを選んでいることで証明できると思う。
では、そのバーンズ・シリーズの魅力を見ていくことにする。まずは、バーンズ自身の魅力から。
オーウェン・バーンズ
私がバーンズ・シリーズの存在を知ったのは、南雲堂のムック『本格ミステリー・ワールド2011』の「ポール・アルテとのメイル交換」(つずみ綾)という記事だった。このアルテのインタビュー記事は二〇〇九年版から二〇一七年版まで毎号掲載されているが、その三回目で、アルテはバーンズについて、こう語っている(以下、「インタビュー」とだけ記した文はこの連載から)。
アルテの「私はオーウェン・バーンズを作中に登場させるのが大好きなんですよ」という言葉は、読者に「ツイスト博士を作中に登場させるのは大好きではないのか?」というツッコミを許してしまうが、これは本音なのだろう。というのも、ツイスト博士は、アルテが自身の好みに従ってゼロから作り上げた探偵ではないからだ。『赤髯王の呪い』の柄刀一の解説によると、実質的な処女作であるこの長篇の探偵役は、初稿では――J・D・カーが生み出した名探偵――フェル博士だったのだ。それがツイスト博士に代わったのは、版権の問題がクリアできなかっただけに過ぎない。つまり、ツイスト博士とフェル博士の違いは、名前と外見だけなのだ。
言うまでもないが、アルテ本来の作風とカーの作風はイコールではない。詳細は後述するが、独創的なトリックを軸とするカーの作風において最も輝くフェル博士を自作に登場させることは、アルテにとって「大好き」とは言えないのだろう。
例えば、前述のインタビューでは、アルテは「(ツイスト博士と比べて)バーンズはよりコミカルで、極端なふるまいをします。おそらくそのために、私はちょっとバーンズをえこひいきしたくなるのですよね」と語っている。しかし、「コミカルで、極端なふるまい」をするというのは、フェル博士にも当てはまるではないか。おそらく、カーの「コミカル」、つまり「ドタバタ」は、アルテの好みではないのだろう。
では、どのような「コミカル」が作者の好みかというと、私見では、ある長篇におけるバーンズのふるまいのようなものだと思われる。この作のバーンズは、「ぼくの審美眼は女性の丸みをおびた体についつい引きつけられてしまうんだ」と言って、美女の胸の谷間を観察して、痣らしきものに気づく。だが、首飾りで隠れているので、確証を得ることができない。そこで、ウェイターを利用して彼女を椅子から落とし(と27章で言っている)、胸元をのぞき込んで確認する――うん、フランス風だ。
次は、殊能将之の言葉を引いてみよう。『殊能将之 読書日記 2000-2009』の『混沌の王』評の中で、殊能は「このオーウェン・バーンズという男、本当に無責任である。なにしろ、勧善懲悪という概念がないのだからすごい」と語っている。確かに英米本格の探偵と比べたら「すごい」かもしれないが、アルセーヌ・ルパンやファントマを生み出したフランスでは、それほど「すごい」というわけではない。
逆に言うと、アルテの作風を知りたいならば、ツイスト博士ものよりバーンズものを読んだ方が良い。『赤髯王の呪い』を書いた頃のアルテは、自分の作風がわかっていなかったので、まずは好きなカーを真似てみた。だが、バーンズものの第一作を書いた時には、既に九作の長篇を上梓していた。つまり、作者が自分が書きたい、書きやすい作風を認識し、それに合わせて生み出されたのが、名探偵バーンズということになる。
ここで補足を一つ。右に挙げたバーンズものの作風が興味深いのは、これがミステリ部分と巧妙に連携している点。
例えば、美女の胸の痣の件は、明記してしまったら、読者は誰でも入れ替わりトリックに気づいてしまう。かといって、書かないとアンフェアだと叩かれる。そこで作者は、「痣のことは書かないが、バーンズの不可解な行動を利用して間接的に書く」手法を用いたわけである。
また、名探偵は、警察やワトソン役に――実は読者に――意味ありげなヒントを出すことがある。ミステリ・ファンなら、ホームズの「その夜の犬の不思議な行動」や、ヘンリー・メリヴェール卿の「ユダの窓は、君たちの家にもある。この部屋にもある」といった言葉を思い出すに違いない。そして同時に、「もったいつけずにさっさと話せよ。事件を解決する気はないのか」と感じたことも思い出すだろう。確かに、名探偵が真相を伏せてほのめかしをする理由を作中で巧く説明できている作品は少ない。だが、他の名探偵と異なり勧善懲悪という概念がないバーンスならば、わかりにくい上にミスリードが仕組まれているヒントを出しても不自然ではないというわけである。加えて、本シリーズではワトソン役がかなりいじられているのだが、これはコミカルであると同時に、ミスリードにもなっている。同じようにワトソン役いじりが得意な銘探偵メルカトル鮎(麻耶雄嵩)を連想した読者もけっこういるに違いない。
今度は、オーウェン・バーンズの初登場作である『混沌の王』に沿って見ていこう。
この作では、伝統に従い、ワトソン役で語り手のアキレス・ストックとの出会いが描かれている。しかも、その花屋でのごく短い場面だけでバーンズのキャラが端的に表現されていて、作者のセンスがうかがえるのだ。
花屋で「アメリカいちの美女」に花を贈ろうとするバーンズ。彼はまず一種類の花を選び、花屋に「それはおすすめできない」と言われ、読者は「バーンズは鑑識眼がないのだな」と思う。だが、その直後、彼は「この花以外を全部買う」と言って、自らの鑑識眼を示す。実に巧妙かつコミカルではないか。
この場面では、バーンズの外見も描写されているが、これも興味深い。「でっぷりとした太った巨体、くいしん坊そうな唇、眠たそうに垂れた瞼」と、あまり女性にもてそうにない外見なのだ――と書くと、「フェル博士やメリヴェール卿だって、似たような外見じゃないか」と言う人は少なくないだろう。しかし、バーンズはフェル博士たちとは異なり、二十代半ばで、独身で、いつも女性を追いかけ回しているのだ。
もちろんこれも、作者の計算だろう。ドリアン・グレイのような美青年が女性を追いかけ回してもコミカルにはならない上に、読者が反発するからだ。
しかも、この設定もまた、ミステリ部分と連携している。バーンズを名探偵として見た場合、ツイスト博士のように、事件に対して距離を置くタイプではない。事件関係者と関わり合い、恋愛関係になることだってあるのだ。
そして、この事件関係者との恋愛が、推理に影響を与えている。言うまでもないが、J・D・カーのようにワトソン役の恋愛ならば、名探偵の推理に影響が及ぶことはない。ワトソン役にとっては「大事な恋人」でも、探偵役にとっては「容疑者の一人」に過ぎないのだから。
バーンズものでは、しばしば、彼の事件関係者への恋愛感情が、捜査や推理に影響を及ぼしているように見える。ただし、そう見えるからといって、実際にそうだとは限らない。バーンズが美女の色香に迷って推理を間違えるのか、色香に迷うが推理は間違えないのか、そもそも色香に迷ってはいないのかは、解決篇を読むまではわからない。これもまた、ツイスト博士ものにはない、バーンズものならではの魅力だと言える。
では、そのバーンズの肩書きは、というと、作中では「耽美主義者、思想家、哲学者、詩人、作家」と言われているが、登場人物表では「美術評論家」だけ。冒頭では、バーンズは『アーチー・ボウが肝心』という劇を書いたとされているが、こちらはメインの仕事ではないらしい。
そして、この肩書きで思い浮かぶ名探偵は、ヴァン・ダインが生み出したファイロ・ヴァンス以外にない――と書くと、「美術評論家なのは探偵ではなく作者の方だ」とか、「ヴァンスは大道芸や美女まで美術だと見なしていないぞ」といった反論が出るかもしれない。だが、ミステリ部分との連携を考えた場合、二人は〝美術評論〟を同じように使っているのだ。
まず、バーンズで注目すべきは、『混沌の王』第二章の次の文。
これは自身の探偵法を語っているわけで、実際、『混沌の王』のラストでは、バーンズは「(犯人は)まさに偉大な芸術家だ」と言っている。
ここで、ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』を読むと、作中でファイロ・ヴァンスがよく似たことを言っているのに気づくと思う。
ヴァンスはこう語る。頭の良い犯人が行ったごく一部の犯罪は、物質的手がかりを用いる警察の捜査では解決できない。なぜならば、犯人が手がかりを偽装するからだ。解決するには心理的手がかりを用いれば良い。美術評論家が絵画を見るだけで、その表現形式や技巧や精神性から画家を特定できるように、探偵は犯罪から犯人の個性を見抜くことができる。
……どうだろうか。バーンズもヴァンスも、あらゆる犯罪について語っているのではない。天才的な犯人が行ったごく一部の犯罪だけを語り、そういった犯罪を生み出した犯人の個性を美術評論家のように解き明かす、と言っているのだ。『殺人七不思議』では、「オーウェンは《研ぎ澄まされた感性》で《殺人者という名の芸術家》の心性に分け入り、必ずや最後にその正体を暴いた」と言われているが、これをファイロ・ヴァンスと置き換えても違和感はないだろう。
ここまで見てきたように、バーンズの造形、事件との関わり、推理法は、ツイスト博士とかなり異なっている。ところが、今度は探偵ではなく作風を見ると、もっと異なっているのだ。では、その作風の違いを、作品ごとに見ていこう。真相は明かしていないが、ヒントめいた文は出て来るので、白紙の状態で未読作を読みたい人は、その作を取り上げている箇所は飛ばしてほしい。
『混沌の王』(一九九四年)
バーンズものの作風は二種類あるが、本作は「幻想的な謎を論理的に解体する」作風。こう書くと、島田荘司が提唱した奇想理論のように思うかもしれないが、その通り。もちろん、アルテはバーンズ・シリーズの開始時点では、島田荘司が奇想理論を実践した『眩暈』(一九九二年)などの作は読んでいない。それなのに、作者がやろうとしたことは同じなのだ。
だが、この作風について語る前に、ツイスト博士ものの作風を考察しよう。
バーンズのデビュー後にアルテが書いたツイスト博士ものは翻訳されていないが、紹介文などを読むと、バーンズものの作風が入っているように見える。そこで、本稿ではツイスト博士ものの作風は、一九九四年以前の作品のものと見なすことにさせてもらいたい。
こちらの作風は、J・D・カーと同じで、トリックが軸になっている。作者はまず、独創的なトリックか、既存のトリックの独創的な変形を考案。次に、そのトリックを生かすためのシチュエーションを考え出す。トリックは軸なので変えることはできないが、シチュエーションはいくらでも変えることができる。
一方、「幻想的な謎を論理的に解体する」作風では、作者はまず、幻想的なシチュエーションを考案。次に、そのシチュエーションを実現するためのトリックを考え出す。シチュエーションは軸なので変えることはできないが、トリックはいくらでも変えることはできる。つまり、トリックが〝目的〟から〝手段〟に変わっているのだ。
例として、この作風がはっきり出ているアルテ作品『吸血鬼の仮面』を見てみよう。アルテはこの作品について、インタビューでこう語っている。
この文を読むだけで、作者の狙いが「吸血鬼の仕業としか思えない事件を起こす」ことにあり、トリックはその実現手段に過ぎないことがわかると思う。J・D・カーの『三つの棺』(一九三五年)や『囁く影』(一九四六年)も吸血鬼伝説のほのめかしがあるが、あくまでもメインは密室トリックであり、吸血鬼は入れ替え可能なオプションに過ぎない。
ここでミステリ・ファンならば、「ホームズものの『バスカヴィル家の犬』(一九〇二年)が魔犬伝説を現代に甦らせたのと同じではないか」と考えるかもしれないが、同じではない。『バスカヴィル』では、読者が「魔犬は人間によるトリックではないか」と考えると、真相を見抜くことは難しくない。だが、『吸血鬼の仮面』では、読者が「吸血鬼は人間によるトリックではないか」と考えても、状況の不可能性が圧倒的なので、真相を見抜くことは難しいのだ。これこそが、バーンズものが本格ミステリとして高く評価される理由に他ならない。
そして、本格ミステリとして見た場合、トリックが目的か手段かという違いは、評価の違いをも生み出す。
トリックが作者の目的ならば、読者は既存のトリックと比較して評価を行う。例えば、ツイスト博士ものの『第四の扉』の読者は、この作のメイントリックを、クレイトン・ロースンの短篇や歌野晶午の長篇と比較して評価するが、これは間違ってはいない。
だが、トリックが作者の手段ならば、こういった評価方法は間違いになる。読者は、「このトリックは先例がある」と批判するのではなく、「この先例のあるトリックを〝人が鏡に映らない〟現象を作り出すために使うとは思わなかった」と考えるべきなのだ。
また、アルテは不可能状況に対して、「証人が噓をついた」や「何人もの共犯者がいた」や「被害者が協力した」といったトリックを用いることが少なくないが、これらはミステリ・マニアなら高い評価は与えないだろう。従って、このトリックをメインにした作品を〈新案トリック品評会〉に出品しても、賞を獲得することはできない。
だが、こういった陳腐なトリックを〝幻想的な謎〟を生み出すために用いた場合は、評価は逆になる。吸血鬼が起こしたとしか思えない出来事が十個あったとすると、そのすべてに独創的なトリックを用いることはできないが、それは読者も了承済み。読者は十個の出来事に対して、「これは偽証でできる。これは複数の目撃者がいるので偽証ではなく共犯者利用かな」といった感じで推理を進めるので、むしろトリックは陳腐な方が良いとも言える。そして、十個の中に、陳腐なトリックでは実現不可能な出来事が一、二個あれば、読者は満足して本を閉じるわけである。
ただし、『混沌の王』では、作者はまだこの作風を完全に身につけておらず、ツイスト博士ものの作風の延長上にあるようにも見える。つまり、混沌の王は、吸血鬼の先輩ではなく赤髯王の後輩に見えてしまうのだ。その証拠として、再び殊能将之の『読書日記』から、『混沌の王』評を引こう。殊能は「肝心の不可能犯罪がいまいちなので、あまり高くは評価できません。せいぜい短編向きの小粒なトリックなんですよ。トリックを考えるのに疲れちゃったのかな」と語っているが、これがツイスト博士ものの作風に従った評価――〈新案トリック品評会〉における評価――であることは明らかだろう。
ならば、『混沌の王』はアルテの作風移行期の中途半端な凡作かというと、そうではない。ミステリとして見た場合、ツイスト博士ものにはない、二つの大きな魅力を持っているのだ。
一つ目は、バーンズの推理。ツイスト博士はカーの探偵と同じで、推理を積み重ねていくタイプではない。だが、本作におけるバーンズは、手がかりを基に推理を積み重ねている。特に、エドウィン殺しでは、
①「謎を解くには、ありえないことを排除していくだけでいい。そうして残った仮説は、どんなに馬鹿げて見えようが真実にほかならない」というホームズの名言に従って事件の構図をひっくり返し、
②「被害者の顔の引っかき傷」の手がかりで、その新たな構図を裏づけ、
③いくつもの手がかりを用いて、犯行当時の犯人と被害者の動きを再現する。
という見事な推理を披露してくれる。私は、エラリー・クイーンの『フランス白粉の秘密』における推理――いくつもの手がかりを用いて犯行当時の犯人の動きを再現する推理――を思い出したくらいである。バーンズものの、いや、アルテの作品の中でもトップクラスの推理ではないだろうか。
また、このハイレベルな推理によって、カーとの違いも浮かび出ている。数は少ないが、カーにも「幻想的な謎」を前面に出した作品がある――例えば、十七世紀の毒殺魔が現代に甦ったのではないかという幻想的な謎を持つ『火刑法廷』(一九三七年)。ただし、こちらの解決篇では、アルテのように謎を論理的に解明しているのではなく、「こうすれば犯行が可能になります」と言っているだけに過ぎない。だから、いくらでもどんでん返しが追加できるわけである。つまり、カー作品では、「幻想的な謎」があっても、それが「論理的に解体」されているわけではないのだ。
二つ目は、バーンズと事件関係者の女性との関わり。前述したように、バーンズが事件関係者の女性に惚れているのかいないのか、惚れているなら推理や捜査に影響を受けているのかいないのかが解決篇まではっきりしないため、読者はバーンズを完全には信じ切れない。特に、シリーズ第一作となる『混沌の王』では、読者はバーンズの過去の活躍を知らないため、どこまで信じて良いか迷うに違いない。まあ、日本では発表順に訳されなかったため、このあたりのミスリードの効果が弱くなってしまったが……。例えば、この作の20章でバーンズが披露する推理が穴だらけであることは、読者にもわかる。しかし、バーンズ自身がこの推理を正しいと思っているかどうかは、本国の読者にはわからない――が、後続の作品を先に読んでいる日本の読者にはわかるのだ。
また、本作では、探偵役のバーンズだけでなく、ワトソン役のストックも、別の事件関係者といい仲になっている。読者は、バーンズの相手役だけでなくストックの相手役までも疑うべきかどうか、迷ってしまうに違いない。
ちなみに私は、バーンズが美女とのデートを優先して捜査をストックに押しつける場面を読んだ時、「事件関係者の注意をストックに引きつけておいて、自分はこっそりと捜査をするつもりだな」と思ったのだが……。
しかし、何と言っても驚いたのは、21章とエピローグに出て来るバーンズの「犯人は芸術家」という言葉の意味。冒頭でバーンズが「真に並はずれた犯罪は芸術だ」という意味の宣言をしているので、読者は「芸術家」というのは比喩だと考えるに違いない。だが、これは比喩ではなかったのだ。
こうして『混沌の王』を見てみると、トリックを目的から手段に変える作風の切り替えは巧くいったとは言い難い。だが、「シリーズ第一作では読者が探偵役になじみがない」という設定を生かした様々な仕掛けは巧くいったと言ってもかまわないだろう。大山誠一郎がこの本の帯に「本作で、美学者探偵オーウェン・バーンズがますます好きになりました。彼の言動や推理から目が離せません」という文を寄せた理由も、おそらくここにある。
ここで触れておきたいのは、同年に発表されたツイスト博士ものの『死まで139歩』には「幻想的な謎を論理的に解体する」作風の片鱗がうかがえること。ひょっとしたら、この作風をツイスト博士で試したら巧くいかなかったので、作者はバーンズを生み出したのかもしれない。
『殺人七不思議』(一九九七年)
バーンズ・シリーズのもう一つの作風は、見立て殺人もの。これはシリーズ二作目となる本作で用いられているが、一見すると、一作目の作風を受け継いでいるように思える。〈混沌の王〉の伝説を〈世界七不思議〉に置き換え、複数の犯罪を不可能状況に設定。個々のトリックはあくまでも七不思議を実現するための〝手段〟であり、〝目的〟ではない。そして、犯罪を芸術と見なすバーンズの推理――。
だが、ミステリの観点からは、大きな違いがある。それは、『殺人七不思議』は見立て殺人ものだが、『混沌の王』はそうではない、ということ。『混沌の王』や『吸血鬼の仮面』では、初めのうちは、起きた殺人は伝説の怪物によるものだと考えられ、解決篇では人間によるものだと明らかにされる。だが、〈世界七不思議〉は、そもそも殺人とは関係ない。従って犯人は、殺人とは無関係の七不思議を殺人に結びつける必要がある。これが〝見立て〟というわけである。そして、読者が解くべき謎は、「殺人者は怪物か人間か?」ではなく、「見立て殺人を行った人間は誰か?」になる。
ここで考慮すべきは、見立ての謎を解こうとすると、超越性が浮かび上がるという点。マザーグースの歌詞に従って人を殺していくと、被害者は歌詞に従属する存在となり、人間以下になる。一方、人間を次々と人間以下に貶めていくと、犯人は人間以上になる。見立て殺人の二大傑作『僧正殺人事件』(ヴァン・ダイン/一九二九年)と『そして誰もいなくなった』(アガサ・クリスティ/一九三九年)の犯人が、共に自分は特別な存在だと考えているのは、偶然の一致ではない。
この超越性を、ヴァン・ダインはニーチェの超人思想と結びつけたが、アルテは芸術と結びつけた。見立てに気づいたバーンズは、「あまりに美しすぎる符合」だと語り、「一連の殺人事件の目的は、美の探求にほかならないのです」と語る。この姿は、『混沌の王』よりもさらに、ファイロ・ヴァンスに近づいている。本作の4章では、バーンズがジョン・コンスタブルの絵の技法を分析しながら殺人の捜査に重ね合わせる場面があるが、これは、ヴァンスが『ベンスン殺人事件』で披露する心理的探偵法に他ならない。「たまたま現場に残された、偶発的なものもあれば、犯人がわざと残していったものもある。だとしたら誤った手がかりなんだが、えてして素人はそこに飛びついてしまうんだな」というバーンズの言葉も、ヴァンスの言葉と重なり合う。そして、クライマックスにおけるバーンズと超越的な犯人の対決場面もまた、『僧正殺人事件』を彷彿させる。
ただし、この作のバーンズは、ヴァンスの欠点も受け継いでしまっている。それは、「連続殺人を途中で止められない」という欠点。バーンズは三番目の殺人から捜査に加わっているのに、七人全員が殺されるまで――見立てが完成するまで――事件を解決できないのだ。もちろん作者は言い訳を用意していて、15章でバーンズにこう言わせている。
ツイスト博士が言ったら失笑を買うような言い訳だが、もちろん、バーンズなら問題はない――かな? もっとも、バーンズがこの作では冴えた推理をまったく見せないというわけではない。個人的には、エピローグで披露する、アナグラムを使った推理が気に入っている。
だが、『殺人七不思議』は、単なる『僧正殺人事件』の物真似ではない。アルテ独自の魅力が加わっているのだ。
一つ目の魅力は、犯罪の不可能性。『僧正』も『そして誰も』も、個々の殺人は不可能犯罪ではない。おそらく二人の作者は、〈見立て〉と〈不可能性〉の二つを一作に盛り込む必要を感じなかったのだろう。そして、その必要性を見つけ出したのが、横溝正史。彼のある長篇の犯人は、見立て殺人を不可能状況下で行うが、それは密室ではなくアリバイを作るためだった。警察に見立て殺人の犯人だと疑われても、アリバイがあるので、逮捕されることはない。
本作の不可能状況も、犯人にとってはアリバイ工作になっている。だが、横溝作品と異なり、それは動機の一つに過ぎない。犯人が七つの見立て不可能殺人を行った最大の動機は、バーンズにあった。未読の人のためにこれ以上は伏せておくが、この動機のため、クライマックスのバーンズと犯人の対決には、『僧正殺人事件』にはない魅力が加わっているのだ。
これが『殺人七不思議』の二つ目の魅力に他ならない。不可能状況は誰にとっても不可能状況だが、芸術作品は、鑑賞する人によって評価は異なる。この作の犯人はすばらしい芸術家であり、その犯罪はすばらしい芸術作品である。だが、ツイスト博士には、そのすばらしさは理解できない。バーンズが、バーンズこそが、正しく理解できるのだ。かくしてバーンズから芸術の霊感を受けた犯人は、彼を事件に導き、理解してもらおうと考える。この犯人と探偵の一種の共犯関係もまた、本作の魅力なのだ。
アルテは、もともとは芸術で使われる手法である〝見立て〟を用いて、芸術家の犯人による芸術的な犯罪を芸術批評家の探偵が解き明かす『殺人七不思議』を描き、成功を収めた。強いて本作の欠点を挙げると、個々の不可能犯罪トリックの中には評価できないものもあることだろうか。だが、本作においてトリックは、殺人七不思議を作り出すという目的を果たすための手段に過ぎないので、トリックだけ抜き出しての評価はさほど重要ではない。加えて、大山誠一郎が『2021本格ミステリ・ベスト10』で本作を海外部門の四位に選んだ際に添えたコメントの「無茶な点もあるが、名探偵のキャラクターがそれをカバーしている」という指摘も重要だろう。また、第四の殺人トリックを批判する人は少なくないが、この作品世界では、「美女の愛を手に入れるため恨みもない他人を七人殺す男」の存在が許容されていることを忘れてはならない。
次作『Les Douze crimes d’Hercule』は私は未読だが、『ヘラクレスの十二の犯罪』という題や、アルテのインタビューでの「彼(バーンズ)は十二件以上の殺人事件に取り組みます。びっくりするような不可能状況が、大勢の証人の前でおこる」という発言から見ると、『殺人七不思議』の作風を受け継いでいるように見える。おそらく、作者自身も、本作に手応えを感じたのだろう。――もっとも、行舟文化の編集者によると、出来がよくない方なので訳さなかったらしいが。
『あやかしの裏通り』(二〇〇五年)
次の『あやかしの裏通り』は、典型的な「幻想的な謎を論理的に解体する」作風。本作の幻想的な謎――裏通りの消失――が混沌の王や吸血鬼によるものではないため、より島田荘司作品に近づいている。このプロットを変えずにバーンズを御手洗潔に、ストックを石岡に代えても違和感がないように思える。まあ、時代が離れているというネックがあるが。
ここで、「裏通りの消失ならば、島田荘司作品ではなく、家屋が消失するE・クイーンの『神の灯』(一九三五年)を挙げるべきではないか」という人がいると思う。だが、トリックと幻想的な謎の関係を見ると、そうではない。
「神の灯」では、メイン・トリックが明らかになった瞬間に、幻想的な謎は解体される。これは密室ものやアリバイものと同じ構造だと言える。
だが、島田作品では、メイン・トリックが明らかになっただけでは、幻想的な謎は完全には解体されない。鎌倉がゴーストタウンと化す『眩暈』を例にとると、この幻想的な謎は、メイン・トリックが解き明かされてもなお、いくつもの謎が――マンションや車の謎が――残っているからだ。
『あやかしの裏通り』も同じで、24章のバーンズの推理で裏通り消失トリックはある程度解明されるが、そのトリックでは説明できない部分がまだまだ残っている。しかも、裏通りが時空を超える謎については、このトリックでは説明できない。こういった残った謎も解明して、ようやく「謎は解体された」と言えるのだ。
そして、すべての幻想的な謎を解き明かすバーンズの姿は、名探偵にふさわしい――と言いたいところだが、今回のバーンズの推理は、読者には難しい。シリーズ三作目でバーンズの名探偵ぶりが読者に知られているから許される手法だと言える。もっとも、日本ではこれが初紹介作品なのだが。
VS読者という観点からは、今回はストックの使い方が実に巧い。アルテ作品では証人が偽証するトリックが多いのだが、今回、読者はその可能性を考えることはできない。なぜならば、噓をつかないはずのストックさえも時空を超える裏通りに迷い込んでしまうからだ。ここで読者は偽証トリックは使われていないと考えるしかなくなるわけである。ちなみに、『眩暈』でも、石岡が幻想的な謎を目撃する場面がある。
推理の代わり、というわけではないだろうが、本作には巧い伏線がいくつもある。特に、ラルフと男爵夫人が惹かれあう理由、バーンズが19章で行う実験の意味、そして、逃亡犯ジャックの使い方は見事と言うしかない。
さらに、本格ミステリとして見た場合、本作にはバーンズがらみの優れた趣向がある。それは、「犯人がバーンズの存在を意識している」点。『殺人七不思議』でも犯人はバーンズを意識しているが、それは〝芸術評論家〟として。こちらでは〝名探偵〟として意識しているのだ。そのため本作には、クイーンの中期作のような――『十日間の不思議』(一九四八年)のような――趣もある。
逆に言うと、本作のバーンズは文句なしの名探偵ではあるが、美学者らしさはさほど感じられない。そして、このバーンズの美学者から名探偵への重心の変化は、この後の作品にも引き継がれることになる。
『吸血鬼の仮面』(二〇一四年)
『あやかしの裏通り』の次作『La Chambre d’Horus(ホルスの間)』は未訳なので、またまたアルテのインタビューを引用しよう。
これは明らかに「幻想的な謎を論理的に解体する」作風だが、これまでのバーンズものとは大きな違いがある。それは、幻想的な謎が、作者のオリジナルかどうかという点。
『ホルスの間』はミイラ男を扱っているが、われわれ読者は――映画や小説でおなじみなので――ミイラ男がどんな幻想的な謎や不可能状況を作り出すことができるかを事前に知っている。仮に、作者がトリックの都合でミイラ男の設定を変えたら、読者は文句を言うに違いない。
一方、『混沌の王』も『あやかしの裏通り』も、われわれ読者は、どんな幻想的な謎や不可能状況が発生するのか、事前にはわからない。作者がトリックの都合に合わせて作り上げた不可能状況を、読者は文句を言わずに受け入れるしかないのだ。
作者として楽なのは、明らかに後者のオリジナルの方。だが、作者としてやりがいがあるのは、前者だろう。都筑道夫などがしばしば描く「他人の考えたシチェーションに合理的な解決をつける」作風は、作者が名探偵の立場に近くなり、本格ミステリ心(?)が刺激されるからだ(私自身、贋作やパロディで何度も他人のシチュエーションに挑んでいるので、その楽しさは多少は理解できていると思う)。アルテ自身もそう感じたらしく、次作『吸血鬼の仮面』では、ミイラ男を吸血鬼に代え、再びこの作風に挑んでいる。私のこの考えが正しいことは、二九〇ページに引用したインタビュー記事の中で、アルテが『吸血鬼の仮面』について「あまりにも手強い問題ばかりで、しばしば投げ出しそうになりましたよ! でも、私はこの冒険に取り組もうと決めたとき、これらの謎のすべてを扱いたいと思ったのです」と言っていることで明らかだろう。
その『吸血鬼の仮面』を、私はこの作風を最大限に生かした傑作だと見なしている。吸血鬼が実在するとしか思えない幻想的な謎の数々をバーンズが解き明かしていくこの物語は、優れた本格ミステリになっているからだ。
また、この作風はトリックだけ抜き出して評価すべきではない、と私はこれまで語ってきたが、本作のトリックは、そういう評価をされても耐えうるものになっている。一年前に死んだ女の死体が瑞々しかったトリックはアルテらしからぬスマートさだし(失礼!)、カーのトリックを改良した密室トリックは銀の弾丸の使い方が巧妙。単独ではあまり評価できない偽証や共犯者によるトリックも、今回は抑制されている。そしてもちろん、複数のトリックが組み合わさって浮かぶ幻想的な光景もすばらしい。私見では、「怪物の仕業だとしか思えない出来事が論理的に解体される」作風の最高傑作は化け猫を扱った泡坂妻夫の『猫女』(一九八五年)だが、『吸血鬼の仮面』はそれに匹敵すると思う。泡坂の作の、猫がベランダから消失するトリックなどは、アルテが書いたとしてもおかしくない。
では、バーンズの推理は、というと、『あやかしの裏通り』と同じく、読者には難しい。ただし、「瑞々しい死体」のトリックだけは――前述したようにスマートなので――読者にも解決可能だし、実際、私はある程度見抜くことができた。
また、バーンズの美学者探偵ぶりも、数は少ないが、『あやかしの裏通り』よりは描かれている。
まず、この作の吸血鬼伝説の元ネタは、作中では数年前に出たばかりのブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(一八九七年)であって、ストーカーが参照した実際の吸血鬼伝説ではない。さらにアルテは、これにシェリダン・レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』(一八七二年)を加えている。つまり、謎の土台は現実ではなく、二つの芸術(文学)作品からなのだ。――もっとも、文学作品の利用はバーンズの専売特許ではなく、ツイスト博士もエドガー・アラン・ポーの「黒猫」などを使っているが。
さらにバーンズは、事件関係者の一人が描いた水彩画を推理に使っている。ミステリ的にはその水彩画に描かれている場所が重要なのだが、バーンズは、「このなかで(画家の)人生を激変させた出来事を描き、永遠に封じ込めた」と考え、隠された動機を見つけ出す。まさしく芸術探偵ではないか。
最後に、本作で最も注目すべき点を記しておこう。それは、35章のバーンズによる密室講義。ここで、「オーウェンはもったいぶったようすで、密室殺人のさまざまなトリックをひとくさり列挙した」。つまり、バーンズはここで、フェル博士が『三つの棺』で行ったような密室講義をしたわけである。だが、その内容を読者が知ることはできない。なぜならば、ストックが「読者諸氏をわずらわせないよう、そこは省略することにしよう」と考えたからだ。
同じ作者の『死まで139歩』(一九九四年)では、ツイスト博士がちゃんと密室講義をしているのに、なぜバーンズは省略したのだろうか? その答えは二つ考えられる。
一つ目の答えは、作中年代の問題。ツイスト博士の講義は――作中人物の一人が指摘するように、そして、フェル博士の講義と同じように――密室ミステリに登場するトリックの講義になっている。この講義は一九四〇年代末に行われているので、講義で取り上げる密室ミステリには不自由しない。
だが、『吸血鬼の仮面』の作中年代は一九〇一年。講義で取り上げることができる密室ミステリが少なすぎるのだ。だからといって、作中年代を一九四〇年代にするわけにはいかない。例えば、作中では、吸血鬼だと疑われた人物が村人にリンチされる場面があるが、これを一九四〇年代の出来事として描くのは、かなり難しいだろう。そもそも一九四〇年代頃には、吸血鬼伝説は舞台や映画――クリストファー・リー版は後年だが――などで娯楽作品の一テーマに変質してしまい、幻想性も神秘性も薄れてしまっている。
ただし私は、もう一つの理由の方が大きいと思う。それは、バーンズとツイスト博士の立ち位置の違い。博士はメタレベル、つまり作品の外に立っている部分があるが、バーンズはあくまでも作品の内部に留まっているのだ。
フェル博士は『三つの棺』の中で密室講義をする際に、「われわれは探偵小説の中にいる人間だ」と宣言し、密室トリックは作中犯人ではなく作者が考えたものだとして講義を行っている。これがメタレベルからの台詞であることは言うまでもない。ツイスト博士はここまで露骨ではないが、『死まで139歩』の密室講義や本格ミステリ批判への応答など、何度も作者の代弁者をつとめている。
だが、バーンズはメタレベルに立つことはできない。なぜならば、彼は「ときとして犯罪は芸術作品に匹敵し、その犯人は芸術家に比類しうる」と言っているからだ。この、「巧妙な犯罪を作り上げた芸術家は作者ではなく犯人だ」という考えが、作中レベルのものであることは言うまでもない。この点からも、バーンズは――作者ではなく犯人の心理を推理しようとする――ファイロ・ヴァンスの後継者だと言えるだろう。
しかし、それならば、なぜバーンズは密室講義をやったのだろうか? 答えは引用した文のすぐ後でわかる。バーンズはまず、密室状況の証言に偽りはないと推理し、犯人が使ったのは窓かドアの二つしかないと限定。続いて、さまざまなトリックを一方の出入り口に当てはめて検討した結果、こちらの可能性を消去。次に、さまざまなトリックをもう一方の出入り口に当てはめて検討した結果、一つだけ残った可能なトリックが使われたと結論。
先行作品にまったく触れておらず、どう見ても、密室ミステリのトリックではなく、密室トリックの検討。E・A・ポーの世界最初の密室ミステリ――なので先行作品は存在しない――「モルグ街の殺人」(一八四一年)におけるデュパンの推理とよく似ている。ただし、ポーの場合は本当に先行作品がないのだが、アルテの場合は、実際にはいくらでもある。つまり、バーンズが密室講義をすると、一九〇一年以降に発表された密室ミステリのトリックを、さも自分が考えたかのように語らなければならなくなる。それを避けるために、作者は〝省略〟したのだろう。
ここまでメタレベルについて長々と述べてきたが、これには理由がある。次作『金時計』の考察で、その理由を語ろう。
『金時計』(二〇一九年)
この作は、現代と過去の二つの事件を描くという、ユニークな設定を持っている――と書くと、「そんな設定の作品はバーンズものにもツイスト博士ものにもあるじゃないか」と言われるかもしれない。だが、それらの作品では、探偵役は現在の事件を捜査し、そこからさかのぼって過去の事件も捜査している。ところが、本作のバーンズは、過去の事件(一九一一年)の捜査を行っているのだ。現在の事件は一九九一年で、これはバーンズにとっては八十年後の未来になる。つまり、現在の事件をバーンズが捜査することは不可能なのだ。
ならば、作者はどうやってこの不可能を可能にするのだろうか? 探偵役が過去にタイムスリップするJ・D・カーの『火よ燃えろ!』(一九五七年)のように、バーンズを未来にタイムスリップさせるのか? あるいはバーンズのひ孫あたりを探偵役にして、「ひい爺ちゃんの名にかけて」とか言わせるのか?
この答えを作者は隠しているわけではないようなので明かしてしまうと、「バーンズは(その子孫も)現在の事件には一切関係しない」。つまり、現代の事件はオーウェン・バーンズの事件簿には含まれていないのだ。
もちろん、現代の事件は過去の事件と密接な関係がある。というか、その〝関係〟こそが――こちらはここでは明かせないが――本作の最大の趣向なのだ。だが、一九一一年の章にしか登場しないバーンズがそれを知ることはない。知ることができるのは、現代篇の作中人物(の一部)と、読者だけなのだ。
そしてこれが、本作のユニークな魅力になっている。
バーンズにとっては、一九〇一年と一九一一年に起こった不可能犯罪を、いつものように論理的に解体した事件。
読者にとっては、八十年を隔てた二つの時代をめぐる幻想的な謎が提示されるが、現代篇には探偵役が存在しないために、論理的な解体はなされない作品。
過去篇だけに存在する探偵役が「二つの時代をめぐる幻想的な謎」を論理的に解体しようとするならば、その探偵はメタレベルに立つ必要がある。だが、既に述べたように、バーンズにはそれはできない。ならば、新たにメタレベルに立つ探偵を作れば良いかというと、それもできない。というのも、この幻想的な謎は――未読の人のために理由は伏せるが――同じテーマを扱った泡坂妻夫の『妖女のねむり』(一九八三年)とは異なり、論理的に解体できないのだ。探偵役ができるのは、伏線の回収だけに過ぎない。言い換えると、この謎は、読者に挑戦するタイプの本格ミステリで処理することはできないのだ。
だが、『金時計』はまぎれもなく本格ミステリになっている。その理由こそが、バーンズの存在に他ならない。本来、この設定だと最終章は現代篇になるはずなのに、本作はバーンズによる足跡トリックの解明で締めくくられているのだ。このため、現代篇は伏線回収タイプのミステリだが、過去篇だけは、探偵の推理を描く本格ミステリの構造を保つことができたわけである。
作者のこの姿勢を否定する人も少なくないだろう。バーンズを出さずにラストは現代篇ですべての伏線を回収して、「すべてが伏線! 八十年の時を超えた愛のミステリ!」とでも謳った方が評価されたかもしれない。だが、そういった作品は他にいくらでもある。本来は本格ミステリには組み込めないプロットを、シリーズ探偵を利用して組み込んでしまった本作の方が、ユニークなのではないだろうか。
短篇
次に取り上げるべきは本書『白い女の謎』となる。だが、本篇より前にこの解説を読んでいる人のために、先に短篇を考察しよう。
既に述べたように、バーンズものの魅力は、個々の不可能犯罪トリックではなく、「世界七不思議見立て」や「吸血鬼伝説の復活」といった、事件の全体的な構図に仕掛けられたトリックにある。ただし、これは長篇だから可能な作風。短篇の場合、「全体的な構図」がスケールダウンしているので、読者の注目は、一つしかない不可能犯罪トリックに向くことになる。従って、アルテが多用する「証人が噓をついた」や「何人もの共犯者がいた」といったトリックがむきだしになり、高い評価が得られなくなってしまう――というのは私の杞憂だった。この欠点が出ているのは、「星を盗む者」一作のみ。それ以外の五作は、どれも良質の不可能犯罪ものになっているのだ。
まず、「幻想的な謎」が、どれも魅力にあふれている。空から橇で降りてくるサンタクロース、予知夢、粘土で作られた空飛ぶ怪物、北欧神話の怪狼フェンリル、かぶると透明になるハデスの兜、星の消滅、と短篇ならではの――長篇を支えるのは難しい――幻想的な謎を味わうことができる。
その幻想的な謎を作り出すトリックもまた、短篇向きのシンプルなものばかりで、長篇では時折見られるゴタゴタした感じを免れている。特に、「斧」と「粘土の顔の男」のトリックのスマートさは、感心するしかない。
しかし、最も感心するのは、その幻想的な謎を解き明かすバーンズの名探偵ぶり。短篇なので、事件の説明を聞いただけで解決してしまうのだ。「星を盗む者」など、全三十ページのわずか十六ページ目で真相を見抜き、「ピンの頭に書きこめるほどの小さなひと言で、説明がすむくらいに(真相は単純だ)」と言い放つ。さらに「粘土の顔の男」では、「小さな布きれ一枚でも奇跡は起こせるんだ」と語る。何よりもすばらしいのは、ほとんどの短篇が安楽椅子形式であること。つまり、バーンズが得たデータは、ストックも、そして読者も得ているのだ。ストックに先に推理を語らせてからそれを叩きつぶす短篇がいくつかあるが、作者は明らかに、ストックの背後に読者を見ている。読者が考えそうな推理をストックに語らせ、それを否定しているのだ。また、バーンズが事件を語る短篇もあるが、そこでは、「ぼくは手がかりになることは、ちゃんと強調しておいたぞ」と言っている。こちらも、作者がフェアプレイを意識している証拠になるだろう。
また、推理自体も切れがあるものが多い。私は、エドマンド・クリスピンの『列車に御用心』や『Fen Country』、それにクリスチアナ・ブランドの『招かれざる客たちのビュッフェ』といったイギリス作家の作品集に収められている、しゃれた短篇を思い出したくらいである。
なお、本書の付録「ハデスの兜」は、メイン・トリックだけ抜き出して見ると感心しない人が少なくないと思う。だが、ベリー殺しとルブラン殺しの連携によるトリックの巧妙さを知ると、評価は一変するはずである。
嬉しいことに、行舟文化は、ツイスト博士ものとバーンズものとノンシリーズものを集めた短篇集を企画しているらしい。もしバーンズものの短篇が一冊にまとまったら、彼の名探偵としての評価は、さらに高まるはずである。
(『白い女の謎』に関しての部分は、本書でお読みください)
ここまで見てきたように、バーンズは事件ごとに探偵のタイプを変えていく――まるで多重人格探偵のように。フェル博士、ファイロ・ヴァンス、御手洗潔、そして、本書『白い女の謎』ではエラリー・クイーン。これは、対象となるバーンズの活躍譚が六長篇・六短篇も訳されたからこそできた考察であることは間違いない。行舟文化と訳者の平岡敦氏に感謝して、本稿を終わりにしよう。あと、できれば未訳の二作も……