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他力本願寺?


ようこそようこそです。
今週は佐々木が書いております。

私は今年の4月から東京に住んでいます。写真は築地本願寺です。

こちらに来てから知り合った友達が何人かいます。

年をとるにつれ、特定の人と関わることが多くなる中、予想だにしない考え方や、発言をくれる、新たな出会いは、良いものだなと感じています。

自らの常識を覆すと言いますか、いつの間にか我々の脳みそを牛耳る固定観念が、不確かなものだと知らされるのは大事なことです。

生きることも死ぬことも分からず、ともすればただ生きて終わっていくこの命ですが、

この私に、仏様のお慈悲の思いが響き渡るのは、まさに私の常識が覆されることでもあります。

最近知り合った友達は、ただの友達ではありません。

希有な、御同行としての友達です。

寺院関係者ではありませんが、お寺や仏教に関心を示してくれる人です。

やっぱり、仏教って、ありがたいし、凄いものです。

お慈悲は万人に響きます。

だからこそ、お慈悲に基づく言葉や思いがこれまで紡がれてきたのでしょう。

阿弥陀様のお慈悲は、それに興味を持つ人にも持たない人にも注がれる願いですが、聞いてみると他人事ではありません。

聞き続ける・御聴聞するということは、この世の中で、何が真実なのか、何が本当に大切かを考え続ける機会でもあるのでしょう。

その友達を、築地本願寺に案内した時に、その人が興味深い発言をしてくれました。

「そうなんだ。他力って、阿弥陀如来様のはたらきを指して、使うんですね。他人任せにしている人を見たときに、他力本願寺だよそれ、って使ってました。」

「他力本願」と四字熟語ではなく、本願「寺」まで入れて言葉にしている言い方を初めて聞いたので何となく耳に残っていました。

もちろん、「人任せ」の意味合いで使うと、浄土真宗の用語としては誤用です。

「本願」とは、阿弥陀様の、「衆生を救わずにはおられない、捨てられない」という願いに基づいた言葉ですから、他人任せの意味ではありません。

むしろ、阿弥陀様の一方的な活躍を示す言葉です。

その願いを詳しく開くと、「煩悩の滅した安楽のお浄土に生まれると思って、お念仏申しながら生きて来いよ、迷いの命を超え、お悟りをとらせてみせるぞ」という内容です。

「お念仏を申しましょう。」

「なもあみだぶつと称(とな)えましょう。」という言葉が使われるのは、

お念仏が阿弥陀様のお慈悲そのものであるからです。

お念仏申すということは、阿弥陀様のお慈悲が届き続けている姿です。

人から変に見られるからお念仏が恥ずかしいという、娑婆の論理に基づいた発言は、阿弥陀様に失礼だと私は思います。

「南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ」と申すことは、阿弥陀様しかり、先にお浄土でお悟りをとった方が、いま私に届き続けはたらいてくださっている姿に他なりません。

お念仏申すことは、一切の存在との繋がりを確認することでもあります。

信心深そうに、有難いという気持ちで申さねばならないものではありません。

状況次第でコロコロ移り変わるこの煩悩の身を場として、躍動してくださっている阿弥陀様の覚悟のなのりが、このお念仏です。

今日まで、築地本願寺の常例法座の御講師が、大分県中津市の松嶋智譲先生でした。

この方の先祖に、松嶋善譲という方が200年ほど前におられました。

この方の言葉として、好きなものがあります。

お念仏申しながら山を越え隣村のお寺に向かって歩いていたそうです。

「なまんだーぶ、なまんだーぶ」

よいしょ

少し休んで、

「なまんだーぶ、なまんだーぶ」

どっこいしょ

また歩こう

「なまんだーぶ、なまんだーぶ」

その声やリズムにつられたのでしょうか。

随行していた御同行が、松嶋善譲和上に随うように、お念仏したそうです。

「なまんだーぶ、なまんだーぶ」

そしたら喜んだのが、善譲和上。

「おお、今お念仏してくれたね。お念仏はありがたいね。お慈悲はぬくいね。お前も共に喜んでくれるまたお浄土であうことのできる、仲間であったか。」

と共にお念仏した御同行に感謝し喜んだそうです。

そこで、山を越えたところにあったお茶屋さんに座り、団子を御馳走したそうです。

「さっきはお念仏してくれてありがとう。今日もお疲れ様。」

それに対して、団子を御馳走してもらった御同行が、不安げにこう言ったそうです。

「善譲和上。実のところ、正直に申しますと、私はお念仏を、本当にありがたいと思えていません。さっきのお念仏も、あなた様につられていっただけのもの。失礼を承知で申し上げました。お団子を頂くのも申し訳ありません。」

と、自らの思いを打ち明けたそうです。

それに対して善譲和上。

正直に言ってくれたことに感謝してから一言。

「そのお念仏に、身をいれるなよ。」

と優しく仰ったそうです。

ありがたいという思いを、そこに込める必要は、無いよ。

自らのはからいを込めようとすると、他力を見誤るよ。

という言葉でしょう。

阿弥陀様の願いそのものがお念仏です。

他力本願とは、「私を決して見捨てない、悟りの身にさせてみせる」という、阿弥陀様のなのりです。

そのお慈悲のぬくもりを伝えるために存在しているのが、全国のお寺です。

「他力本願寺?」

とその言葉が耳に残っていました。

「なんだそのお寺は。」としか思っていませんでしたが、よくよく考えると、

お慈悲に端を発していないお寺などありません。

時に涙を流しながら、思い通りにいかないまま迷い続けるこの私を、決して離さない存在が、阿弥陀様であり、阿弥陀様のお慈悲です。

「ある意味、全部のお寺、他力本願寺だ」

誤用してくれた友達のおかげで、凄いことに目を向けさせてもらいました。

なんまんだぶなんまんだぶ、

今も私を活躍の場としてくれるお慈悲がはたらき通しであります。

称名

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