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命の誕生日

ようこそです。

今週は佐々木です。

いつも書き出しに迷います。

ようこそ、は変わらないのですが、その後が迷います。

ようこそ、は、意識しています。

ようこそ、は、誰も無視されない言葉だと思っているからです。

どんな存在であっても、その言葉の中に含まれる、どんな私であっても、排他されようのない言葉だと思っています。

バックグラウンドは問いませんよ、
心の持ちようも問いませんよ、
誰にも言えない気持ちを抱えてても問いませんよ、
そのあなたこそ願いの目当てなんだよ、

という仏様の側の願いを、表現していける言葉だろうと、思っています。

妙好人の、源左さん、も、口癖にしてよく「ようこそようこそ」「さてもさてもようこそようこそ」と言ったそうですが、
私の祖父も、よく言っていました。

「ようこそようこそ」

よく意味が分からず聞いていましたが、耳には残っていました。

あのトーン、あの笑顔、あの声色、あのスピード、

今でも思い出せます。

あぁ、お念仏を大切によろこんだから、あの言葉は出ていたのか、と今なら思えます。

ようこそようこそ

お前が目当てなんだよ、
過去は問わないよ、
迷いの命を無始より繰り返してきたんだよ、
もう迷うことない存在になりなさいよ、と
教えてくださっているように思います。

人間は、地獄に落ちる原因作りは得意です。
無意識にできます。
逆に仏様に讃えられるような行動は、なかなか出来ません。

SDGsと言いながら、その改善されるべき問題の原因は人間が作っています。

清らかな行いをすべきだと分かっていても、
他の命には無関心に、時に残酷に生きている人の行動は、簡単にその命を地獄に連れて行きます。

火の車 作る大工は なけれども
己(おの)がつくりて 己が乗り行く

思い通りにいかない、
都合の良し悪しが波の様に繰り返す、
この火宅無常の世界の中で、

地獄行きの種作りを、せっさとおこなっているのが、我々です。

その私を、もう迷わせないぞと、声となりその存在を告げるのがお六字、南無阿弥陀仏です。

生きてはたらきつづけの如来のよびごえが、お六字です。

一人子のようにお前を大切にし続ける親なんだとなのってくださっています。

大阪の、小山法城和上のエピソードだったと思いますが、

小さい子供を連れた若い奥さんに、年齢を聞かれたことがあったそうです。

なんと失礼な…

「あなたはいくつですか?」

(「なんと失礼な」)
「年のことですか?」

「そうじゃ」

「今年で28になります」

「いやいや、あんたの年齢じゃない」

「どういうことですか」

「その子は何歳じゃ?

「今年で4歳です」

「なら、あんたも4歳じゃなあ」

親になるのは子によって。
子と言われるのは、親のなのりを頂いて初めてです。

お前を一人子のように大切にしているよという親のなのりによって、

そうかお慈悲の仏様にとっての、子としての命であったかと初めて聞いていけます。

そこに、命とは何かを聞いていけるのが、真宗門徒です。

最近の私にとっての大きな出来事ですが、
兄に子が生まれました。

その瞬間に叔父になりました。

意識して叔父になるよう頑張ったわけではありません。

甥が生まれたことによって、ある時、そうさせられました。

南無阿弥陀仏とこの耳に響くのは、
命の親のように、仏様がこの命を包んでくださっている響きです。

すれ違いようのない、
裏切ることのない、
存在の、響きです。

ようこそようこそです。
南無阿弥陀仏


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