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そのまま来いよ

ようこそです。今週は佐々木です。

寒いのか暑いのか分からない、そんな気候です。

私がお悟りを頂き、どんなに小さな命までも支え救っていくというはたらきをするために、阿弥陀様が、救いの法を完成させていますので、こちらに条件は与えられません。

○○をしたら、○○になれば、という、

たら、とか、れば、という条件がありません。

なぜそれを設けなかったかといえば、

たら、とか、れば、の先には、漏れていく者が現れるからです。

どれだけ簡単な問題でも、難しい人にとっては難しいです。

やめた方が良いと分かっていながら、やめない我が身があります。

誰かを傷つける発言は避けようと心がけていても、ふとした時に誰かを悲しませます。

その者は、どれほど簡単な条件でも、漏れ出ていきます。漏れていき、どうなるかといえば。

この悲しい命を繰り返します。どこまでいっても自分を中心にして、

出会っては別れ、愛しては憎み、を繰り返す迷いの世界にとどまります。


それを悲しまれたからこそ、阿弥陀という仏様は、名告り(なのり)となり、私の声になって一緒にいるよ、お前こそをお悟りの仏にしてみせるとお誓いになりました。

その誓いが、誓いのままに完成していることを、私の口から出るお念仏が物語ります。


私が信じたら救う仏様ではありません。
私がとなえたら救う仏様ではありません。
私が自分中心な囚われ心を捨てられれば救う仏様ではありません。

たら、とか、れば、で漏らさない。

そのまま来いよ、の仰せがお六字です。

いつ終わってもおかしくない命に、大きな意味を与えられ、終わっていくことにまでも、意味を頂ける世界です。

先日祖母の葬儀に参列しました、晩年はずっと認知症でした。子供の顔も忘れるまでになったようです。

入っていた施設では、定期的に浄土真宗の僧侶が来て、お経のお勤めが行われていましたが、毎回前に座り、お念仏申して職員の人を驚かせたようです。

なぜかは分かりませんがお念仏は出るようです。

こちらがどれほど忘れようとも、向こうが忘れないという事実の一端を、改めて知らされました。

こちらに条件を求めないからこそ、


どこで急にいのちが終わっても、
間に合いすぎるほどに、間に合う御法義であるんだと、誓いの勇ましさを思います。

私は、私のことを特別大事にしたり、私のことさえもおろそかにする瞬間がありますが、その私を問題にし、そのまま来いよ間違わせんぞ、と、心配し、抱きとり、導いていく御法義です。

命終わる時、苦しい娑婆の世界は卒業。

誰にも条件をつけない、つけなくても良いほどの真実へと入学です。

南無阿弥陀仏


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