我欲・自利・利他
湿度も重なり、汗をかくことが増えてきました。
今週は佐々木です。
仏様という存在は、自らを1番に考えない、
ということが言われます。
利他を第一にするのが、悟りであるそうです。
他の幸福を最も大切にする存在ということです。
だからこそそこには、煩悩を中心とする苦しみがないのだと、説かれます。
まだ私は悟ってませんから、相手を第一に考える実感がありませんが、
喜びが自分で完結しない、
相手の苦しみを相手の中だけで終わらせないことが、
自分にとっても相手にとっても大切なことであることは、理解できます。
それを他から与えられるならとても嬉しいことだということも、よく分かります。
お慈悲の仏様が、利他を中心とするんだ、苦しむ衆生を見捨てられないんだ、と説かれるのは、我々との対比を伝えているのだろうとも思います。
自己中心的であり、心に振り回される衆生が地獄に向かって一直線だからこそ、
それとは逆の、他を第一にする説かれ方が大事にされてきたのではないでしょうか。
仏様の世界を形作る大慈悲心は、
苦しみ悩む者がいるためなんだと、親鸞聖人も味わっています。
「如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり」
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏(称名)
如来を如来たらしめたのは、
我が苦悩であったと聞いた時、なんともいえなくなります。
仏様を仏様にさせたのは、我が煩悩であったんだと聞けるのは、あったかいことです。
浄土真宗の信心は、すごいです。
自らのよろこびと悲しみが同居するものです。
一昨日久しぶりに飛行機に乗りました。
友人の結婚式へ参列するためです。
我々はどこへ行っても自己中心です。
結婚式へ行っても自己中心です。
「花嫁の 衣装を見てる 新婦側
顔だけ見てる 新郎席側」
衣装を見る者、顔を見る者、席次を見る者、参列者を見る者、子を見る者、音を見る者、食事を見る者、酒を見る者、
それぞれ一堂に会して、
それぞれの思いの中に、日常は続いていきます。
それぞれの思いの中に各々感想を持ちます。
それぞれの喜びや悲しみを抱えながら、お互いに想像し合いながら、批評し合いながら、陰口を言われないように、恥ずかしくないように振る舞います。
そのお前をわかったんだよ、実情を見抜いたうえで願い続けると、私にかかる願いがあることを聞き続けられるのが、浄土真宗です。
お悟りを頂いた時には、自分と他人の区別を超えて、関わっていけるそうです。
無事に飛行機に乗れた後、
苦しみはやってきました。
文字通りの苦しみと、
自己中心的でしかいられない苦しみがあるのですが、
機内でベルトを閉めた途端、腹痛が…
なぜさっきトイレに行こうと体は言ってくれなかったのか。
と思うほどに急激な痛みに襲われました。
時すでに遅し。
安定飛行に入るまではトイレに行けません。
離陸までの長いこと長いこと。
きつい。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏(称名)
これも立派なお念仏。
する主体が偉いのではありません。
出させる方が偉く大切です。
痛みにかまけながらも、その口からは、仏様が出てくださいます。
何があってもお前1人忘れはしないぞと、私に願いあることを知らせてくださいます。
しかし腹は痛い。
早く安定飛行になってくれ。
いつもより長いのではないか。
ほぼ安定しているではないか。
このくらいの揺れなら、躓くことなくトイレまで行けます、と
普段考えもしないことが頭をよぎり続けます。
別のことを考えて頭から思いを遠ざけようとしても、痛みが訴えてきます。
誰かにこの痛みがうつったりしてくれないだろうか。
乗客全員でこの痛みを担当を決めて請け負いあったらなんとか耐えられるだろうに。
CAさんに目配せしても首を振られもう耐えるしかない。
手に汗握りながら耐えること30分、ベルト着用サインが消えトイレへと駆け込んだのでした。
環境により体調により、何を考えてもおかしくない、
何をしでかしてもおかしくないこの命を見た阿弥陀様が、
その思い通りにならない苦しみを超えた、仏となるべき命だと教えてくださいました。
何を考えようと、何をしでかしながらも、
その口にお念仏あることを、大切にできる人生は幸せです。
こちらの思いは問わない、
この命を何があっても忘れない、仏にしてみせるとおはたらきの仏様が、お念仏として存在を示してくださいます。
如来の功徳がこの命と御一緒だと示してしてくださいます。
自分ですら価値を見失うこともある我々を、
見失うことが出来なかった、仏様のお悟りが、声を通して我々に御一緒です。
声以外の形でも、御一緒です。
今も、御一緒ですので、願いにしたがいながらお念仏致します。
称名