燻製のたのしみ
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
今週は岩田が担当です。
那須野さんに続き、風邪をひきました。
この1月は「絶対に風邪をひいてはいけない」事情がありましたが、私の都合とはお構いなしに数年ぶりの風邪ひきです。
免疫力強化対策の甲斐あって、熱は短時間で下がりましたが、喉の違和感と鼻づまりが残っております。
これが曲者で、医学的には睡眠障害誘発や喘息の危険因子とされています。
えらい大袈裟な…と思われるかも知れませんが、“鼻がつまって寝苦しい” あの感じです。
他にも喉鼻の症状は、食欲不振、集中力低下にもつながるといわれていますが、これは炎症だけが原因でははなく、味覚嗅覚が鈍感になることが影響しています。特に嗅覚は単なるセンサーだけではない、記憶のフックとしての強いはたらきがありますものね。
もう半月前になりますが、正月二日にミニスモーカーなるものを手に入れました。購入理由を説明すると長くなるので置きますが、これで簡易の燻製が楽しめます。
福袋ではなく燻製キットを手に帰宅し、煙や匂いがどうなるか分かりませんので、家族がガヤガヤしているキッチンを離れ、古い建物の台所でお試しです。
とりあえず、残り物のちくわと6Pチーズとカシューナッツをセットしてみました。
スモーカーには実際にその商品にハマった方の説明書とお手製レシピ集が付属されていました。それによりますと、モノにもよりますが、大さじ1~1.5杯のチップで、そして8~10分の火入れで燻製ができてしまうようです。
前日に動画で観たプロのスモークとは随分と状況が違います。そりゃそうだ、プロは業務用冷蔵庫くらいの燻製機にスモークサーモンやベーコンを1度に何十本と吊していましたが、このミニスモーカーは小さめのホットプレートくらいの大きさなのですから。
(にしたって、ホントにぃ?)と疑った私は、チップを1~2割増やしました。
スモーカーを火にかけても思ったほど煙は出ません。匂いもわずかです。(うちのコンロでは規定通りでは弱いんだな)と火を強めて、スモーク時間も延長することにしました。
できあがった人生初の燻製は、とってもスモーキー
…を通り越して、鼻をつく煙臭さ 笑
出ました、私の悪い癖。
未知のことでも先人のアドバイスに従わない。役に立たない思い込みを持ち込む。失敗してみないと肚落ちしない。
この数年で思い知ったはずだったのになぁ、とニヤニヤしながら2回目のスモークに挑みます。
無意識に鼻がはたらきまして、弱いと感じていた燻製の匂いは換気扇を回していても台所中に広がっていることに気付きました。そうなると、煙の匂いの奥にあるその場所に染みついた匂いがキャッチされます。同時に、一気に記憶が開かれました。
このお台所でずっと作られてきた法要のお斎に纏わるアレコレ。
祖母にこっぴどく叱られた後の夕飯の気まずさ。
3歳頃の妹が新品の醤油の一升瓶を割って床が醤油の海となった時のこと。(→以前はここがお寺の台所兼、プライベートの台所兼食卓でもありました)
一瞬の香りから、記憶だけでなく当時の感覚や感情が芋づる式に呼び覚まされるのですから、嗅覚というのは不思議なものです。
そうこうしているうちに出来上がった第二弾の燻製。
今度はチップの量も、火加減も燻製時間も先人のアドバイスに従いました。さらに “一日おくのが香りも味も落ちついて食べ頃”と先人は仰せです。味見に伸びる手は1回にしてグッと堪えます。
翌日、水煮のうずら卵とナッツとベーコンブロックは、高級食材へと変貌しておりました。複雑な香りを纏い、元々の旨味が凝縮されたような味わいです。とくにナッツは一緒にスモークしたベーコンの存在を微かに感じる出来映えとなりました。
もともと、燻製の目的は香り付けに留まらず、保存性を高めることにあったようです。食材を塩やスパイスでつけ込んで水を抜き、タンパク質などを変性させます。それを乾燥させてから煙で燻す。そうすると、さらなる脱水作用と、煙からの成分が食品の酸化を抑え、抗菌作用ももたらします。保存のために食品を変質させることが味わいの深まりに繋がっていたのです。
燻製効果ってすごいものですね。
「僕たちはねぇ、薫習されとるのよ」
数年前に行信教校の喫煙所で先輩から聞いた言葉です。例の第一弾の煙臭いナッツをつまんでいたら、タバコの煙に蒔かれながら聞いた言葉が、思い出されました。酒臭い息とご機嫌の先輩のお顔と共に。
(くんじゅう…なんだそれ、後で調べよう)
私よりも年若く勉強はちょっと苦手そうだったその先輩は、私が知らない言葉を沢山ご存じでした。フワ~っと見えて大っきな存在感を持つ人物で、敵わないなぁと思わされる先輩のお一人です。
薫習とは仏教用語で、香りが衣類などに移ることによって、もともとなかった香りが衣類に残るように、あるもの(A)の性質が他のもの(B)に移って、そのもの(B)の性質を変えていく様をいいます。
広い意味では、善い影響も悪い影響も含まれます。
また、AとBは別の個体のものや人ではなく、私の行為の積み重ねが私の心に溜まって、時を経てその影響が私の上に出てくる。とも考えることができます。(私の行為がどこから影響を受けているのか、という大きな問題がついて回りますが)
良い環境で育ったら良い子が育ち…という次元に収まる話ではなさそうです。
仏教用語ですから、迷いの世界から悟りの世界への転出を目的とする中で紡ぎ出された言葉なのです。
悟りの身となるためには、仏様の智慧と慈悲を私自身が得なければなりません。そのために正しい教えを正しく聞いて、智慧を磨くことを重ね、1段ずつステップアップしていくのが仏道修行です。書くのは簡単ですが、途方もない話しです。まず「正しく聞く」がどんな聞き方かさえ分かりません。
私が出遇わされた阿弥陀様という仏様は、漏れる者を作らない救いを開いてくださった仏様でありました。
私が足掻いてどうこうしようとすることが、阿弥陀様の薫習を受けることではありませんでした。それは、阿弥陀様のおこころを頷いて聞き、そのおこころが私に少しずつ少しずつ沁み、私の心が変え成されていくことでした。
うーん、ぶっ飛んだ話ですよね。どういうこと?ですよね。
阿弥陀様と私、絶対的な隔てはあるんです。でも唯一、両者を繋げるものとして与えられたのがお念仏です。
そのお念仏の出所や意味さえ知らず、口に抵抗感さえ覚えていた私に、お念仏に込められたこころを知らせ、自然とお念仏を口にする者へと変えていく。
「お念仏してくれよ」との阿弥陀様のおこころが、私に届いた具体的な姿です。
先輩の言葉が場所を限定していたのかは分かりかねますが、私にとっては薫習の始まりの場は行信教校でした。
濃厚な場に身を置いて、短期間のうちに煙臭くなることができればよかったのですが、阿弥陀様のおはたらきを以てしてもそれは無理な私です。
おかげでというかなんというか、引き続き阿弥陀様の薫習の中に身を置いています。
頭が働かない風邪引きが、ブログは迷走してもお念仏は口にできる…本当に頭がさがります。
今回はこれにて。
まだまだ感染症の勢いは続いています。
どうぞどうそ、お身体お大事に。この冬を乗り越えていきましょう。
南無阿弥陀仏