大掃除の掘り出し物から
皆さんこんばんは、那須野です。
インフルエンザが猛威を振るっておりますが、いかがお過ごしでしょう。
我が家はコロナからのインフルで、てんてこ舞いです。
さて、一年かけて本堂の修復を行なってきた自坊ですが、言うなれば数百年分の大掃除です。
大掃除の掘り出し物と言えば、古い手紙や文集、日記などが定番ではないでしょうか?
テスト前になると不思議としたくなる大掃除、それらのものを読み耽っていると、夜も耽ると言う謎の罠。
結局部屋だけが片付いてテストを受けると言う学生時代を送ったのは、私だけではないではずです。
さて、今回も出てきました、掘り出し物。
その名も『對松日誌』。
「明治四拾壱年拾月壱日」(西暦1908年)と書かれています。
当時の我が家の記録が書かれてありました。
著者は1855年生まれの20代住職です。
しかし、達筆と言いますか何を書いてあるのかさっぱり分かりません。
不飲酒戒のメモは楷書で書かれてあり、はっきり分かりました。。
読解していると、夜が耽るどころか、歳をも越しそうです。
これはおいおい向き合うとして。。
手元には『学僧逸伝』なる本があります。
『對松日誌』が読めなかった代わりに、同じ時代に活躍された、我らが行信教校の初代校長利井明朗和上(1832年-1918年)を引いてみることにしました。
蛤御門で敗れた長州兵を本願寺に匿い、自ら隊長となって守られたそうですが、その時の佇まいは
「白毛の大兜を頂き、大刀を腰にし、飛鳥井邸の床の間に腰をかけて下知したという」
とあります。
本山が火の車で台所まで破壊して薪として燃やされたとなるや、御本山さえも庫裡を打ち壊して終わったのに、末寺に庫裡など要らぬと、ご自坊の常見寺の庫裡を破壊したとか。。
蛤御門の変は1864年とのことですから、和上は32歳です。
え、32歳!?
私が知っているのは行信教校の講堂に掲げてある、白髭の立派な老僧の姿ですので、計算するまでその姿を想像しておりました。
32歳となれば、ちょっと印象が変わります。
血気盛んな若者が、と思うと、時代の中で闘ってこられた中でも序章だったのかも知れません。
今の私の僧侶姿をご覧になると、どれだけがっかりされるかと、自然と首を垂れる次第です。
その後も和上は本山の護持、僧侶の育成のためにその生涯を捧げられることになりますが、長くなりますので今回は割愛させて頂きます。
さて、160年前の先哲方のご苦労がなければ、間違いなく今日の浄土真宗はありませんでした。
その想いは、ひとえに阿弥陀さまの教えを後の世に伝えるという一心であったのだろうと思います。
そうやって、今日の私まで脈々と伝わってくださった御法義なのですね。
大乗の中の至極、易行のお念仏と聞かせていただきますが、その歴史は決して易いものではなかったはずです。
明治より以前にも、先輩方はまさに命を懸けて阿弥陀さまのおみのりを守り抜いてくださいました。
十方の衆生に届く救いは、もちろん阿弥陀さまの御本願のはたらきですが、そのはたらきに突き動かされて身を粉にして報じてくださった方々もまた、確かにいらっしゃいました。
時を超えた御同行、御同朋でありながら、阿弥陀さまのはたらきを私のところまで届けてくださる善知識さまでありましょう。
お念仏の声に、多くの善知識さまの想いが重なるようであります。
十方の衆生とは、東西南北間四方に上下で十方とはお聞かせいただきますが、無量寿、無量光、時間も超越したはたらきなのだと言うことを、つくづく感じるご縁でありました。
称名