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未知と不可思議

ようこそです。
今週は佐々木です。

寒くなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

世間を賑わす悲しいニュースを目にはしますが、正直それよりも自分のことで精一杯。。という悲しい事実を感じているここ最近です。


目の前のことも、見えているつもりで見落としていること、多いのだろうなとも思います。

親鸞聖人が仰いだのは、無量寿、無量光である阿弥陀様の願いです。

20年間の比叡山での生活。

冬は今と比べ物にならない寒さだったことでしょう。

特に法然聖人と出会うまでは、悶々とした生活だったことが想像されます。

何の為に生きていくのか、なぜ人は争い裏切るのか。

修行しながらも慈悲の心とは程遠い、自らの心を見つめ続けた苦しい期間だったかと思います。



我々の言う「恥ずかしい」と、
親鸞聖人の言う「恥ずかしい」は、

段違いなんだ。

という言い方を聞いたことがあります。

我々の恥ずかしさは、

ちょっと自らの可愛さを誇る時さえあります。

慈悲の心を起こせず、自分の欲望を奮うことに恥ずかしさは覚えません。基本的に。

しかし、自らの幸せを他者に与え、他者の苦しみを自らが背負うのが、真実まことの生き方であると、仏教は示します。

その仏になるための修行をしながらも、自らの心持ちに嘘をつけなかったのが、親鸞聖人です。

だからこそ、そこにひらかれた浄土真宗は、嘘が要りません。


自らを誤魔化すことなく、仏様と相談する人生を恵まれます。


我々は、分からないことは怖いです。

明日は怖い。

経験したことがない、見たことのない日常は、未知で怖い。

だからこそ、分からないものを分かろうと努力してきたのが我々の文化です。



しかし、我々の知識では解決不可能な問題を抱えているのも事実。


この命は誰にも代わってもらえない、

この命の不条理は、誰も解答を示してくれない。

人間関係も、思い通りにはいきません。

流したくない涙も流れ出るし、聞きたくもない言葉を聞いていかないといけない。

その、自分という最大級の未知、「分からない」は、それを分かる存在にしか解決できません。

未知なる自分に、意味を恵まれることこそ、その問題の解決であります。

私を、分かり、分かったうえで、念仏して浄土に生まれてきてくれよという願いがあります。

私とは願われた身でありました。

迷いに迷ったこの私が、もう迷うことなくこの命の意味に頷ける。

法然聖人の教えを聞いた時、解決できない我が身であればこそ、その私を包むほどの大きさをもってはたらいてくださるものこそ御念仏であると、喜んだのが親鸞聖人ではなかったでしょうか。


未知は怖い、

しかし、同じ「分からない」でも、不可思議を聞くものには喜びが伴います。

分からない私が目当てであり、分からないほどの大きさを持つ真実だからです。

分かったことが手柄にならない、分からないことが邪魔にならない、阿弥陀様の御法義であります。


最近、正欲という映画を見ました。

誰にも理解されず日常を過ごす人が、同じく理解されない人と出会って理解し合う。

普通という暴力に振り回されながらも、我が身の置き所を与えられていく、

私には居場所があったと頷ける時、
我々は自分を誤魔化さないで生きていける。

そんなことがテーマかなと受け取りました。


阿弥陀様のことを、直接には分からない。

けれども、

向こう様は違います。

なぜはたらくか。

なぜ名号となってこの身に届くか。

それは、こちらを理解し切ったからでありました。


分からないこの身を分かった上での

御法義です。

未知は怖いが、

不可思議を仰ぐ。

そのことを喜べる世界が、

浄土真宗であるように、窺います。


南無阿弥陀仏






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