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今年もお世話になりました。

年末、でございます。「1年間色々なことがありましたね」としみじみ振り返る人もあれば、「何のことはない、ただ日が過ぎていくだけのこと」という人もありましょう。


毎日毎日私が目を向けておらんだけで、いのちのやりとりがそこかしこで行われている現実があります。私が生まれてきたのはいわゆる「平和な国」でしたけれども、大きく国の政策が変わろうとしている中に、改めて歴史を考えてみれば、戦後起こってきたたくさんの争いに、この国は全く無関係ではなかったと、思わされます。それでも「平和な国(私はこの言葉を聞くたびにずっと違和感がありますが)」という体裁を保ってきたのは、先輩たちの「二度と戦わない」という強い意思があったのだとおもうんですが、この場は御法義のお味わいの場ですから、この程度でやめておきます。


如来さまは、ご自身のいのちをかけて私が仏となる道を選んでくださいました。「必ずお浄土に迎えとるから、仏とかえなすから、そう思いとって生きてこいよ。お念仏をして生きていってくれよ」と私の成仏をご期待くださいます。

こう聞くと「死後」を期待する宗教と思ってしまうことでありますが、常に「今」のお救いです。今ここに如来さまがご一緒してくださること、私の声のお念仏となってくださっておることを、何度も何度も思い出しては、改めてお念仏をさせていただきます。


私が人にどう思われているかはよく分かりませんが、一年を振り返れば今年もよう怒りました。人に。


車を運転すれば汚いものが口から出る。口に出んでも顔に出る。チラと何かのはずみに自分の顔が鏡に写れば、鬼がそこにおる。まあよくもこう人に対してイライライライラできるものだと恥ずかしくなりますが、その瞬間はどうにもなりません。

しかしこんな私でも、私の着る安い洋服のために劣悪な環境で働かされている海外の人の話を聞けば、そういう服を買うのを躊躇するようになったり、レアメタルという希少な鉱物が私のiPhoneに使われていると聞いたならば、少しでもこれを大事に使ってみたり、いろんな事情で勉強がしにくい子がいると知ったならば、その子の勉強に付き合ったり、戦争の悲惨さを聞かされれば、非戦を貫くことを誓ったものを大事に思ったり…よそ様のために、人のことを思って、できることはしてきました、つもりです。


そういったことは、これまでは、人としてそうあるべきだと(たまに)思いながら、させてもろうてましたが、先輩が教えてくださいました。如来さまがご期待くださっているからこその御恩報謝ですよと。


ご開山親鸞聖人の時代から、「南無阿弥陀仏と称えりゃ救われる、あとは何しても私の勝手」とお念仏の御法義を自分勝手に解釈した人がおったと、ご開山のお手紙から読み取れますが、今もやはりそう思ってしまう人はいる訳で。というより、小学生の時分は私もそう思ってました。


しかし本当に、如来さまが私一人のいのちを捨てまいと、五劫兆載永劫のご苦労と聞かされたのちは、心のままに生きていくことに恥ずかしさを覚えていくようになっているんです。少しずつ、少しずつ。


自分の振る舞いは、その瞬間はやはり心のままに怒り他人を攻撃してしまう私ではありますが、その度に「ちょっとあんた、それが如来さまに願われたいのちの振る舞いですか。それが如来さまがご苦労くださって仏になることを期待されたいのちの姿ですか」と自分の胸に問い返しながら、生きていく目が開かれていきます。言っておきますがそうなることを期待して聞く訳ではありません。お慈悲を聞いたものはそうなるように出来ているんです。


それだけに止まらず、如来さまは「十方衆生」と全てのいのちを救うことを誓われた、そう思い返せば、無惨に見過ごしていたいのちも、かけがえのないいのちであることを思い出させてもらいます。

ですから、安い便利な服をつくるためにいのちを削って奴隷のように働かせられる人を思ったり、物を大事に使ってみようと思ってみたりするのは、如来さまが願っておられる世界を思い返してのことです。人として当然の振る舞い、それはそうかもしれませんが、私の中に人を思う気持ちなんて実は全く無くて、如来さまのお慈悲を聞かされたこそ、私の中に芽生えていった感情であったはずです。


そう思えるようになることが、実は今ここに届いている救いなのであって、また、それによって「そのように思いとらせてもらえるようになりました。そう思い取ってこれだけのことをさせてもらいます」というのが、御恩報謝なんでしょう。生活の全てが御恩報謝に変えられていく。うまく言葉になりませんが、そうなっているんです。


だからこそ、「非戦」を、僧侶は訴えるべきではないか。と思うんですが、ここまでで止めておきます。私は訴えます。


何度も言いますが、そうなることを期待して、如来さまの願いを聞くもんではありません。「そう思え」と強制しては木山教になってしまいます。それぞれが如来さまに願われた自分自身のいのちを思いながら、それぞれが如来さまにご相談なさって振る舞っていけばよろしい。ですから教えを聞いたものがどう振る舞うかを強調せずに、ひたすらに如来さまの側のお話をしてくださった先輩方の姿があったんだとろうなと思わされます。


さて、どんな1年間だったでしょう。お互い様に心のままに生きてきた1年間だったかもしれません。来年もきっと如来さまのことを忘れがちな私ではありますが、いつでも出てきてくださる私の声のお念仏に、何度も何度も如来さまを思い返させてもらいましょう。


心のままに書き散らかして大変失礼いたしました。

思い返しては手を入れて訂正するかもしれませんが、今回の木山の投稿は、ひとまずこれで終えます。今年もお世話になりました。ありがとうございました。


ナンマンダ

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