翻訳できない世界のことば
こんにちは。
金曜日の夜にはバレーボールに勤しんでいたのですが、土曜の朝から猛烈な喉の痛みを感じ、現在は鼻水鼻詰まりに苦しんでいる那須野です。
鼻を噛む、というのは結構体力を奪われます。
蓄膿症になりやすいので今回は漢方ではなくパブロンのお世話になることにしました。
2錠でいいのに何を間違えてか3錠飲んでしまい、普段薬を飲まない私の体は非常に堪えています。
しんどいです。
さて、最近『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース 前田まゆみ訳 創元社)という本を読みました。
読む、というよりパラパラとめくったページの、言葉に出会う感じでしょうか。
例えば67ページにはフランス語「FEUILLEMORT」とあります。
枯れ葉のように色が薄れていく、という意味だそうです。
流石フランス、おしゃれですね。
43ページにはトゥル語で「KARELU」とあります。
肌についた、締め付けるもののあと、だそうです。
言葉そのものも去ることながら、トゥル語とは一体この地球上のどこで使われている言語なのでしょうか。
日常的に肌を締め付けるアクセサリーなどを使っているのでしょうか。
だとすると暖かい地域の言語かも知れません。
84ページイヌイット語「IKTSUARPOK」、
誰か来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出てみること。
寒い北の大地の人々の生活には、中々訪問者が居ないことを想像させます。
日本語からは「TSUNDOKU」が取り上げられてました。
積読です、最近できた造語だと思いますが、この言葉ができたくらいなので、読まずの本が積み重なっているのは私だけではないということでしょうね。
積読が上がっているということは、そんなに古い言葉ばかりでもないのかも知れませんが、一つの言葉から背景にある文化や日常が垣間見える感じがして、とても楽しい一冊です。
本の最後には「KALPA」、サンスクリット語です。
宇宙的なスケールで、時が過ぎていくこと。とあります。
私たち仏教徒が使う「劫」の原語です。
阿弥陀様は五劫の間思惟されました、という時の「劫」です。
100年に一度空から天女が降りてきて、4キロ四方の岩山をそっと撫で、その岩山が無くなるまでにかかる時間を一劫という、などと例えられます。
それくらい、とてつもなく遥かな時間ということです。
この言葉で締めくくられているのは、なんんとなく嬉しいですね。
私だったら何を選ぶかな、と考えたら、やっぱり南無阿弥陀仏でしょ。
「NAMUAMIDABUTSU」原語はサンスクリット語に伺えますが、しかし中国ではナモアミトーフォー、ベトナムではナモアミダファ、韓国ではナムアビミータムと称えられてるというと国を超えた仏教徒語とも言えそうです。
翻訳の難しさは、掲載されている言葉を軽く超えてきます。
阿弥陀仏が、全ての生きとし生けるいのちを救うと立ち上がり、完成された功徳を備えられた名前。とかでしょうか?
もちろんそれだけで言い尽くすことはできませんので、法話、お取次ぎという形で私たち僧侶はお話をさせていただきます。
翻訳できない阿弥陀様の名号を、何冊分にも言葉を紡いで今日私のところまで届いているのですね。
宗祖親鸞聖人は、このお六字を「帰命尽十方無碍光如来」あるいは「南無不可思議光如来」と翻訳してくださいました。
これを十字名号、九字名号と言います。
十方に障りなく届く光の仏様の言葉を信順します、思議できない光の仏様にお任せします、いずれも光の仏様としての表現です。
ここでサンスクリット語のアミタという言葉を説明すると良いのでしょうが、本日の私にその体力は残ってないみたいです。
翻訳できない世界のことば、ということで納めることとしましょう。
鼻が効かない私にも、間違いなく届いてくださっているようです。
鼻が効かないと気付けない、匂いの仏様じゃなくてよかったです。
クリアな頭でないと気付けない、いけずな仏様じゃなくてよかったです。
私の状況など案外普段からそんなものかも知れません。
鼻が詰まってぼんやりした頭で過ごしている様なのが、おおよその私であります。
こちらから気付かないと救ってくださらない仏様ではありませんでした。
どんな私でも、お念仏してお浄土までの人生を歩んでこいと願われておりますので、鼻声なりに息を上げながらお念仏申して、今日の日を終えたいと思います。
『翻訳できない世界のことば』
世界のいろいろな人々の営みが垣間見えます。
その一人一人に阿弥陀様の願いはかかっているのだよなー
枯れ葉のように色が薄れていく世界に、腕にめり込んだアクセサリーの痕に、何度も何度も外に出てみるその景色に、阿弥陀さんの光は届いているのでありました。
ちなみにトゥル語は南インドの部族の言葉だそうです。
称名