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帰りたいところ

神社の杜で、蝉が鳴きはじめました。
少しフライング気味ですが、この暑さ、鳴かずにはおれないのでしょう。
皆さまいかがお過ごしでしょうか、那須野です。



さて、前回の記事で、鬼について書きました。
その後本など読んだりしております。

古い中国では、人は死んだら鬼になると考えられていたようです。
なんと鬼の住む冥界には官僚制度や戸籍などがあり、良い鬼になるには子孫の供養が大切なのだとか。
物語の中の鬼とは随分イメージが違いますね。
何と言いますか、俗っぽいですね。
ちなみに悪鬼は桃が苦手だそうです。
「桃太郎」がなぜスイカでもりんごでもなく桃だったのか、初めてその理由を知りました。
中国の描写にやたら桃が出てくるのはそういう意味があったのですね。
勝手に、果物の女王として昔から貴重に扱われてた程度に思っていました。


中国にも仏教が入り、鬼の姿も変わっていったのでしょうか。
また、死後は閻魔大王あるいは十王の審判によって浄土へ行くか地獄へ行くか、という話に展開していくようです。
日本では更にオリジナルの道を歩んでいくことになるのですが、それはまた今度。


阿弥陀さまの願いの中で生きるものは、このいのちが終わるときにお浄土に帰ると言います。
往くとも言いますが、帰っていくところ、とも言います。
同じ中国の善導大師は『観経疏』に、

帰去来、魔郷には停まるべからず。
曠劫よりこのかた流転して、六道ことごとくみな経たり。
到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。
この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん

『註釈版 七祖篇』「観経疏」406頁

と言われました。
死後鬼になる思想はなさそうですね。
この娑婆にとどまることなく、お浄土に帰ろうとおっしゃっています。

私が今日帰るところはどこでしょう?
先ほど図書館から帰ってきたのはこの家です。
明日もこの家に帰るでしょう。


いよいよ最期、というご門徒さんの家族と話していますと、
「最後に家に帰りたいと言っている」そんな声をよく聞きます。
実際私の祖母もそう願っていたので、家で看取る運びとなりました。
私は母から話を聞くばかりで、何もできませんでしたが。

想像してみました。
今、私が大病をして、もうその時を待つしかないという状況になったとします。
私が帰りたいのは果たしてこの家なのだろうか、と。
結論としては、私は生まれ育ったあの家に帰りたい、というものでした。

しかしそうすると我が子たちは遠くなるから、結局病院が一番いいのかな、など勝手に考えておりました。
ではなぜあの家に帰りたいのか、簡単な話です、親が居るからでしょうね。
あるいはかつて子供だった私が、両親や祖母祖父から守られていた安心を覚えているからかも知れません。



私どもが帰って往くお浄土には、阿弥陀さまという親が待っておってくださいます。
同時に、阿弥陀さまという親に見守られながら、今の時を生きています。
まったく遊びに夢中で、目の前の楽しいだけを追い求めて、何ともお気楽です。
転んで痛い時には親の元に駆け込み、触れ合って手当てしてもらうことで安心して再び駆け出します。
そうやって今日もまた、日暮れを迎えようとしています。

帰るところがあるから、安心して遊んでいられるのでしょう。
後生の問題が宙ぶらりんだと、どこかソワソワして落ち着かないことです。
じいちゃんが、ばあちゃんが、先に帰って待っとってくださるというのも、いいですね。


西方に沈む夕陽を見ながら、お浄土と娑婆の故郷・愛媛を思うことでありました。

称名

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