一緒にお浄土に往きませんか?
こんにちは、今回は滋賀から那須野です。
日々のお勤めの最後に、回向句というのがあります。
「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」
というアレです。
「願わくはこの功徳を以て、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」
書き下すとこうなります。
昨日、法務を終えて家に帰ると、テーブルの上に名刺サイズの紙やポストカードサイズの紙、名刺より少し小さいかなという紙が3枚置かれてありました。
そこには某宗教団体の文字が刻印されています。
考えなくても分かります、この家にいる私以外の人物がこれをもらったのです。
二人しか居ません。
一人目の次男に聞きました。
「僕じゃないよ、○君(長男)がなんか家の前で話してたで」
そうでしょうね。
二人目、長男に話を聞きました。
「あー、面白かったで、話してたんよ。はじめはキリスト教の人がこんなんありますよーって言うてると思って、僕キリスト教も興味あります、言うて話聞いたんよ。でもな、なんか僕が知ってるキリスト教と違う感じがしたから、聞いてみたんよ。。『この永遠のいのちって、この体が生物学的なおわりを迎えても、永遠のいのちになれるってことですか?』って聞いたら、そういうことじゃないって言われた。あれどういうことやろ?『永遠のいのちが得られるかもしれないってどう言うことですか?得られないかもしれないんですか?』って。絶対じゃないって言わはるから、『それなら一緒にお浄土に往きませんか?』って言うたんよ」
ざっとこんなところです。
聞くと、ヒンズー教の話もしたとか。
30分くらい話したところで、相手方から「ではこれで」と帰って行かれたとの話でした。
「いい人そうやったで。また来るかもな。『いつもおられますか』って聞かれたから、春休みは部活あって忙しいからいつもは居ませんと返事した」
色々と考えるところはありますが、私はこの長男の、
「それなら一緒にお浄土に往きませんか?」っていうのがいいなーと思いました。
個人的には宗教は個人のものだと思っておりますので、長男にご法話を紹介することはあっても、強制したことはありません。
させてもらったことは、幼い頃から本堂で動き回って皆さんの前で走り回って側転していながらも、法座の場に子供が居る事を許してもらったことだけです。
この頃は自坊の常例法座も部活で居らんことが多く、居ってもお勤めが終わると部屋に帰ることがほとんどです。
じいじや母ちゃんの話はほとんど聞いておりません笑
なので、そんな言葉が出てきたことに対しては、喜びよりも驚きの方が大きかったです。
同時に、阿弥陀さんのはたらきの大きさを改めて感じました。
絶対の救いではない、こちらの頑張りによっていのちの行き先が変わるのであれば、僕と一緒に、絶対の阿弥陀さんのお浄土へ往きませんか?
ということですよね。
私は、僧侶はこのテーマを、あの手この手で御門徒さんにお伝えするのがお取次だと考えております。
宗祖の言葉を解説したり、例話を交えてみたり、自分の味わいを語ってみたり。
私が頑張るのはいいんです。
でも頑張れない時があってもいいんです。
それが阿弥陀さんの救いの前では足しにもならなければ邪魔にもならないのですね。
阿弥陀さんの方で、南無阿弥陀仏のお六字に、私の救いの手立ては全部全部完成されておるのです。
それがこの功徳、お念仏ということでしょう。
だから、絶対なのです。
だから、永遠のいのちとなれるのですね。
こちらで考えてもどうしたって分からないことなのです。
息子だって、きっと「どうなんかな?」と思うことがあるのだと思います。
でも、口からは阿弥陀さんの願いが出てくるのですね。
「願わくはこの功徳を以て、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」
非常に大切な御文で、解説するには多くの言葉を駆使して話す必要があるでしょう。
実際布教の場に立てば、私は今後もそうすると思います。
今本願寺派の布教では、分かりやすくということがしきりに言われております。
それには批判的な私ではありますが、これ以上の分かりやすい領解があるでしょうか。
「一緒にお浄土に往きませんか?」
称名