根性がどうであっても
画像は、種から大切に育てられること10年、3日で散った山芍薬の花です。
スマホで撮影して、拡大して細部を見る。肉眼では見落としてしまう瞬間が切り取られ、花は終わっても鮮明な画像は手元に残る。便利で有難いです。
でも、仏様がご覧になったら…。
この花は、葉は、茎は、そして土の中にある10年かけて花を咲かせるまでに育った根茎は、仏様の目にはどれほど美しく映るのだろうか。そんなことを考えた花の終わりでした。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。今週は岩田が担当です。
ここ数年で急激に目が悪くなってしまいました。小さな文字はもちろん、大きめの文字であっても画数が多い漢字や、字体によっては画数が少ない文字でも読み辛い。お聖教の読み仮名は小さな蟻に見えるし、お経本を開けばじわ~っと墨が滲んでいるように見えます。
それでも、記憶と文字のフォルムから瞬時に脳が処理して文字を判別できている、そんな状況が続いていました。(いつもありがとう、脳ミソさん)
視力が良いのが取り柄の私に訪れた、老眼の始まりです。
物事をありのままに正しく見ることが出来ない上に、解像度まで悪くなっては困ります。
薬剤師としては、錠剤表面の識別記号から薬の正誤を監査する仕事もあります。間違えるわけにはいきません。
応急処置的に作った眼鏡はありますが、根本的になんとかならないものか。
そして、老眼だけではない他の病気が潜んでいないかもチェックせねば、と眼科受診を決心しました。
できれば視力矯正だけではなく、進行を緩やかにする方法を提案してくれる先生がいいな…。と探していたら、ちょっと風変わりな眼科の先生に出遇いました。
検査室を兼ねた薄暗い診察室には、沢山の資料や書籍とともに、猫の人形・曼荼羅のような絵・風景写真が並んでいます。秘密基地に入り込んだようで、ワクワクします。
検査を終え、(上に書いたような)現状や希望を伝えます。
すると先生は
「お坊さんってのは暗いところで細かい字ばっかり見て目を悪くするイメージだな。心の目で見られるようになったら困らないだろうけど、薬が見えないのは貴方の患者さんが困るからね」
と穏やかに話し始められました。
(イメージからかけ離れた坊さんで申し訳ないと思いつつ、なんだか面白くなってきたゾ!)
「レンズの老化は治せはしないけれど…」とピント調節の点眼薬とトレーニング方法を教えてくださり(そこは普通でした)、雑談になりました。
調子に乗って気になっていたことを聞いてみます。
私「目にいいと謳うサプリがありますが、先生はどう思われますか?」
先生「貴方みたいな疑ってのむ人には効かないよぉ」
私「!!!(爆笑)」
先生「そうやって自分のこと笑える人はいいよ」とニヤリ。
「とりあえず他の病気はないから、気になることがあったらまたおいで」
と送り出してくださいました。
いやぁ、一発で見透かされましたね、疑い深い私の根性を 笑
先生がすごいのか、私が分かりやすすぎるのか。
眼科からの帰り道、「疑いながらのんでも効かない」と、スっと出てきたあの先生はどんな人生を歩んで来られたのだろう。単にプラセボ効果のことを仰っているだけには聞こえなかったなぁ。
とボンヤリ考えていたら、浄土真宗の「信」に結びつけて頭がグルグルし始めたのでした。
浄土真宗の「信」とは、私が理解出来て初めて信じます、という納得を前提とするものではなく。しかし、理解を横に置いた狂信でも盲信でもありません。
お悟りの世界から私へと届けられる智慧と慈悲の心を、私のフィルターを挟まずにそのまま聞いていく。お悟りの世界から届けられたお念仏が、仏様のお名前であり、私を喚び続ける仏様の救いのお声でもあったと知らされ、お念仏の本当の意味を受容れる。
そういうことを浄土真宗では「信」といいます。
そして「信」ではない状態を「疑」といいます。
浄土真宗の「信疑」を語るにはまったく言葉足らずではありますが、言葉を重ねれば重ねるほど遠ざかってしまいそうなので、話を戻しますと、
「疑いながらのんでも効かない」の言葉から「信」が思い起こされ、
次元は違えども何にでも共通する譬えなのかな、と思ってみたり。
いやいや、一見共通するようで全く異質か、と思い直してみたり。
「譬えは一分」の難しさを考えてみたり。
そんなつもりはなかったであろう先生の一言から、勝手に膨らませてしまいました。
実は昔、その言葉そっくりそのまま用いて「信」を問われたことがありました。
その時、そもそも「疑っているから、のまない(受容れない)」のであって、「効かない(救われない)のは当然」なのが私の姿ですが。
「疑いながらのむ」状態って浄土真宗に対応させたらどういう状態?という疑問が浮かんでいました。
…お念仏の意味を知らず、心が震えるような温もりも感じず、儀礼的にお念仏を称えていた。そんな私の状態のことを指摘されているのだろうか、とグラグラしたものです。
しかし、それはやっぱり受容れていないわけだから、「疑いながらのむ」はあり得ないはずです。
私の内面が問われ、どんどんフォーカスされていく展開を感じたあの時。
ですが、私の内側をどれだけ探しても確かなものは何も見えてきません。
他者や私自身が私の心持ちを観察し判断しようとしても、自己満足か自己否定の危うさが漂います。不確かさしかありません。
なにせ物事の全てを正しく見通すことが出来ないのが私なのです。(しかも認識の入り口の一つであるレンズは老化の一途…)
「信」のあり方も、それによって定まる私の「往生」も阿弥陀様にしか分かりません。
阿弥陀様がゼロから起こして完成された救いの手立てですから、私達が沙汰することは出来ないのです。だからこそ、「往生」のことは阿弥陀様にお任せするのみ、と持ち前の疑い深さが捨て去られるのでありました。
本当のホントのところは、阿弥陀様が分かっていてくださる。
日々の暮らしの中で、私は私の見え方にすぐ振り回されてしまうけれど、出来るだけ早く切り替えられるようにしたいものです。
「したいものです」って分かったようなこと言うてますけど、私よりももっともっと時間的にも量的にも阿弥陀様が望み、歯痒く思われながらも今日もはたらきかけてくださっていることでしょう。
何を切り替えるのかって、阿弥陀さんがおいでの人生であると、思い出すことです。
今回は「信疑」だとか「智慧と慈悲」「受容れる」「救い」「往生」といった浄土真宗の教えのキモとなる言葉を、いきなり羅列してしまいました。
どういうこと?
ぶっ飛んでるな。
色々な感想がおありかと思います。
「疑い」一つとっても、仏教で用いる「疑い」には、日常で使う意味とは異なる広がりと重みがあります。
その区別が分からずに、「分からないことを知って納得したいだけで、それを疑いといわれるのは心外だな」と内心イラっとしていたのはこの私です。
なにがあってか、疑い深さを指摘されて爆笑する者になりました。
それがどういうことなのかを語るのはやっぱりナンセンスな気がしますが、なにか心にひっかかるものがありましたら、またこのブログにお越しください。
仲間達が視点を変えて言葉を尽くして、日暮らしの中で仏様の教えを味わう姿を、また味わっていただけたら幸いです。
今回はこれにて。
称名
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