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夏の風物詩

今週は愛知から岩田が担当です。
各地で梅雨明けが発表されています。これから猛暑が続くかと思うと既にグッタリ。どうぞご体調にご留意くださいませ。

「風物詩」…となんとなく使いかけて、一応調べてみました。
①    景色や季節などの風物を情緒的にうたった詩歌
②    季節、時期を特徴づけるものの総称
と記されています。
日本には四季があるからこその言葉なんでしょうね。それぞれの土地で、季節によって、風土・習慣・祭礼・行事・食べ物などなど多彩な文化が生み出され、深く人々の生活や心に浸透しています。
先週京都に出掛けた折、すっかり忘れていましたが京都の夏の風物詩・祇園祭の直前でして、街は人々でごった返し活気に溢れていました。

祇園祭の中心地からそう遠くない浄土真宗の本山でも、厳かに夏の恒例行事が始まりました。「安居」という期間に入ったのです。
浄土真宗に限らず各宗派の本山・寺院でも時期や期間は少しずつ異なりますが安居が開催されています。
今風に言えばお坊さんの夏期講習、またはその期間のことを指すのですが、もちろん深い歴史と意味があります。

ちなみに、タイを訪れた際に教えてもらったのですが、仏教国タイでは安居の初日は祝日で、最終日は祝日ではなくてもアルコールの販売や(公共の場での)飲酒が禁止されるほど、僧侶だけではなく国民にとっても宗教的に重要な日とされています。

安居の起源はお釈迦様時代まで遡ります。
インドでは春から夏にかけて雨期があり、毎日のように膝まで水に浸かるほどの土砂降りに見舞われます。土砂降りは短時間でそれ以外は晴れ間もあるため、仏弟子達のなかには通常通り遊行(修行や布教伝道のために各地を巡ること)を続ける者があったそうです。
しかし当時、他の宗教も含め宗教者は、芽吹いた草や孵化して地面を這う虫などを踏み殺してしまわないよう、雨期には遊行を止めて定住し、勉強に励む習慣が定着化されつつあったようです。
お釈迦様は、仏弟子たちが雨期の3カ月間は1カ所に定住する安居を制度化されました。

ここまではよく聞く話ですが。安居の目的は思いがけない殺生を犯さない、ということではなかったというのです。(そりゃそうか)

安居期間中には各地に散っている仏弟子たちがお釈迦様のもとに集まって来ました。その時仏弟子たちはお釈迦様からいただいていた課題に従って修行し、その成果を報告するということもあったようです。
また仏弟子たちを集めて、「布薩」(戒を唱えての自らを省みる行為。普段から行われていた)に用いられる「波羅提木叉」(戒の条文)の内容更新と、それを周知させることも安居の大きな目的だったのではないか。なぜなら戒律を保って生きることが仏道修行そのものなのだから。
と聞いたことがあります。

こう聞いたとき、浄土真宗僧侶の私にとってはどう身に受けたらいいのだろうと考えてしまったのです。
それだけではない、安居は一例として、お釈迦様の仏教と浄土真宗の教えに乖離を感じて、なんとかその接点や間を埋めてくれるものを探すように講義を聞いていました。行信教校での仏教一年生の頃です。

そう。本山だけではなく、このブログメンバーが出遇った行信教校においても安居が開催されます。何度かブログでも話題になったことがありますので、ご記憶の方もおいでかもしれません。

普段の講義と本質的に違いはありませんが、過ごし方が違うといいますか。やはり泊まり込みで朝から晩まで集中的に勉強をする期間といえます。

先生方や現役の学生さんだけではなく各地の先輩方がお戻りになり、お聴聞に来られるお同行様方もおいでです。運営面やお食事のお世話をくださる多くの方々に支えられての開催です。

日に三度のお勤めをし、生涯を通して深くお聖教を研鑽され続けている先生方から講義を賜り、先生方・先輩方からご法話を聞かせていただき、現役生は深夜まで次の日の予習をし、OB達は酒盛り…。
その全ての時間において、お念仏が絶え間なく聞こえてきます。
お念仏を称えることは、阿弥陀様のおこころに従い、自らの生き方に向かい合うことに他なりません。

本山の安居に参らせていただいた経験はありませんが、本質的には大きな違いはないと考えます。(ボキャブラリーがないので“本質的に”と2回も続けてしまいました)
講義の内容やご講師の先生は違っても、聞かせていただくものは一つに極まるからです。単に知識的な学びではなく、阿弥陀様の慈悲心を聞き、私の生き方をお聖教に深く窺っていく。それが浄土真宗の仏道なのです。

そこに、お釈迦様の安居とは形式が随分違っても、通じるものはあるのだと最近考えています。

お釈迦様のお側におられた仏弟子たちと同じ道を辿って悟りを得ることはできない身。そのことを痛切に知らされた宗祖が、だからこそ出遇われた阿弥陀様の救済を私達にも開いてくださった教え。それが浄土真宗の教えです。

修行できる者、限られた環境・場所・時代に生まれた者だけを対象とする救いではありません。
煩悩に囚われがんじがらめになっている者が受ける苦悩を自らの痛みとして感じることが出来る阿弥陀様だからこそ、煩悩の囚われから私を解き放とうとしてくださるのです。

救済とは絵に描いた餅ではなく、今ここにいる私の心の視野が開かれることだと聞かせていただきました。
曇った目でしか物事を見ることが出来ない私に気付きを与え、見るべきもの・大切にすべきものを知らせてくださる。苦難を避けることが出来ない私に、苦難を転じる力と意味を感じていけるしなやかさを与えてくださる。人生に尊さを見いだしていけるような智慧を授けてくださる。
そんな阿弥陀様のおはたらきを、宗祖や宗祖が仰がれた高僧方のご指南を通して聞かせていただくのが、浄土真宗の仏道です。

そして、浄土真宗の安居はその教えをわが身に聞き受ける人々が護り、繋げてきた場です。
お釈迦様のご在世の時代から現代まで時間と空間を超えて繋がる安居。
何があっても絶えることなく続けられ、今年も開催されています。
今回ブログを書いていて、改めて、安居の意義や毎年の行事が当たり前ではないことをやっと気付かされたのでありました。
私も末席ながら聞かせていただきたいと思います。
 


称名


追伸
画像はわが家の玄関戸の引き手です。ある日仕事から帰ったらこんな状態に。
なにがあったの!? と聞いてみたら、
「やけどしそうなくらい熱くなって持てなかった」から取った対策なんだとか。
「骨折したかと思ったわ」のボケは完全スルーされましたが、今後、岩田家の夏の風物詩の一つになるのかもしれません。

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