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たから
大好きな秋の深まりをゆっくり味わうことなく、暦の上では冬に入りました。身体の準備も間に合わず気温以上に寒く感じます。が、来週はまた温かくなるようで、皆さま寒暖差による体調変化にご注意くださいませ。
今回は愛知から岩田です。
いきなりですが、「宝」と聞いて何を思い浮かべますか?
定義として宝石、財産が挙がっていました。金目のものではなくても、私にとって大切なモノ、守りたいモノ…確かにそれも個人的な「宝」ですが、私にとっての価値を超えたモノが「宝」と呼ぶに相応しいような気もするし…。反面、私は私にとっての価値しか正直わからない、身に染みて大切にすることができません、残念なことです。
たとえば、国宝に指定された建築物や美術品を見て、先人の技に驚き、歴史的な価値や背景にあるエピソードを聞き、確かに素晴らしい、これは貴重だ!とは思っても、「国宝」のラベルや説明がなければ、きっとそうは思えない自信があります。
それは私の目が、そして心が育っていないのからなのです。
今度は「宝」を仏教語辞典で調べてみると
【寶】①宝物、宝石 ②王妃のこと ③新羅の仏教徒の形成した小さなグループ
と記されています。
しかしその後「寶」がつく熟語の多いこと!(手元にある「仏教語大辞典」(縮尺版)は漢和辞典の体裁です) 仏様のこと、仏様の国(仏国土)、経典を表わす場合や、仏法に関連するものの尊さを表わす時に、比喩的に「寶」を冠につけている場合が多いようです。
私は「宝」を「宝」と尊ぶことができているだろうか?
その「宝」は、私が「宝」を大切で尊いと思える者になる前から、私を守り育んでくださっている。だから「宝」なんじゃないかなぁ。
そんなことをごちゃごちゃと考えたことがありました。
話は変わりますが、10月末から先週にかけては慌ただしく過ごしました。
自坊の報恩講を無事に勤め、翌日には片付けをほったらかし、車をぶっ飛ばして北陸へ。
それは、「空華忌」という法要のご縁に、お育ていただいた行信教校の先生方、教校のボス、先輩や同期、そして現役生の皆さまとともに遇わせていただくためでした。
ここで「空華忌」について少し説明しますと、
「空華忌」とは江戸時代中期の浄土真宗本願寺派の僧侶、明教院僧鎔師の祥月命日の法要です。師がご住職を務められた富山県宇奈月の白雪山善巧寺様で毎年営まれています。
「空華」とは“一切は空である”ことを譬える仏教用語ですが、僧鎔師の号でもあり、その学塾を空華廬、その流れを汲む学派を空華学派といいます。
僧鎔師がご往生された後も、師のお徳と学識の高さを慕って多くの僧侶が入門を希望し、墓前で入門式が行われたそうです。その学系として快楽院柔遠師→了達院行照師、そして行信教校の創立者のお一人である専精院鮮妙師の越中空華学派があります。
僧鎔師のお弟子方は各々学寮を開いて子弟を教育しても自分の弟子とはされず、僧鎔の墓に参らせ空華の弟子とされました。また、その弟子としての印に「丸に花」の焼き印が押された木札が与えられたのです。
こうした空華の教えと伝統が受け継がれ、行信教校では3年に1度「空華忌」に参拝させていただき、空華学派の弟子としてそのお徳を偲ばせていただきます。そして、現在も「丸に花」の木札を頂戴するのです。
コロナ禍で行信教校からの参拝が中断されていましたので、今回は6年ぶりの再開となりました。
さて、空華忌当日。
集落に入ったと思われる辺りから「ここが空華の里かぁ」と一人テンションが上がり始めました。そして善巧寺様に到着。
本堂の手前で、僧鎔師の墓碑が我々をお迎えくださっていました。
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車を降りてからも境内を感慨深く見回していた私に、木山さんが一言。
「怒ってるんですか、眉間に皺寄ってますよ」
…力が入りすぎていたようです。ちょっと落ちつきましょう。
ありがとう、木山。
心落ちつくカフェのような空間でお昼ご飯のご接待を賜り、法要に出勤するため、男女に分かれて着替えする控えの間にご案内いただきました。
控えの間に至る玄関や廊下のいたる場所に、秋らしいお花が華やかに、時にはひっそりと生けられています。お迎えくださる方の心尽くしを感じさせられます。
通されたのは控えの間といっても、わが家の書院?よりうんと広くて立派なお部屋です。法要まで時間がありましたので、ウキウキとお部屋の調度品を勝手に見学させていただきます。
こちらにも、百合と野菊と紅葉が生けられ、ご当地の秋の深まりが伝わってきます。
掛け軸には、ロックでパンクな周利槃陀伽がおいでです。センスですねぇ。
その横には手書きの原稿が、額に入れて掛けられています。
どうやら、ご先代の雪山隆弘先生の直筆原稿のようです。
隆弘先生のお父様であり、行信教校の校長であられた利井興弘先生からのお手紙…
「隆弘、生きとる間は、生きとるぞ」
隆弘先生が闘病中に、ただ1度だけ、たった1行だけのお手紙の言葉が、隆弘先生の直筆によって記されていました。
隆弘先生の晩年のご法話をYouTubeで何度も聞かせていただいた私にとっては、涙腺が緩むお品です。ご家族にとっての宝物を、こうして、どこのどいつとも分からん者にも見せてくださる、善巧寺の方々のあたたかさに感謝の思いが溢れます。
迷いそうな庫裏の中をウロウロし、皆で揃って法要の差定(式次第)説明を受け、いよいよ法要に。大勢で内陣出勤させていただくのは、私にとっては本当に久しぶりのことでした。
読経の後はご住職のご法話です。冒頭に
「あんまり普段使わない言葉…僕苦手な言葉なんですけど…有難かったですね。久しぶりに念仏の渦を体験しました。ここちよいですね」
とのお言葉をいただきました。
なんだか私の言葉にならない思いを代弁していただいたようで、あぁ本当にそうだなと聞かせていただきました。
行信教校に入学していなければ、当然ながらこの場にいることはありませんでした。
僧鎔師や鮮妙師のお名前すら知ることもなく、木札をいただいて事の重みを感じることもなかったはずです。
子供の頃にアニメで観ていた「一休さん」に、かすかな思い入れを持っていたくらいです。
行信教校で過ごしていなければ、興弘先生が病床のご子息隆弘先生に贈られた1行のお言葉の意味を考え続けることもなく、隆弘先生が辿り着かれた「生死出づべき道」をくり返し聞きたいと思うようなことはありませんでした。
くり返し聞かせていただいても、何度考えても、まだ手の届かないものに出遇えた。それが私の宝だと、今のところは思っています。
いのちある限りは、喜怒哀楽ない交ぜになって心揺さぶられる出来事に遇っていかねばなりません。心開かれて感動する世界もあれば、絶望するような世界もあるのでしょう。
でもその先に広がる浄土の世界に、まだ往くことは出来ないけれど出遇うことができました。多くの先師方のお言葉と生き様に導かれて。
先師方が既にお待ちくださり、私も必ず、必ず参らせていただくお浄土のお話。
聞き続けていきたいし、これをいただいてしまったからには、噛みしめているだけではいけませんなぁ。と「丸に花」の木札を見つめたのでありました。
南無阿弥陀仏