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聞こえたまんまが仏なり
ようこそようこそです。
今週は佐々木です。
暑さがきつくなってきました。
いきなりですが、私とあなたと、世界の見方は違います。
同じものを見ても、感動する人、嫌う人さまざまです。
同じ人を見ても、好きになる人、嫌う人さまざまです。
良いと思ったものがいつしか悪いものへと姿を変えることもあります。場合によって私もカメレオンのように見方を変えながら生活しています。
その、好き嫌いの中、善悪の中、生き抜くのが我々です。
都合良いときは嬉しくて最高ですが、都合悪いときは悲しくて最悪です。
でも同じ世界です。変わったのはこっち。
この世界に生きるすべての人が、好き嫌い、善悪をコロコロ変えながら、交錯、ぶつかり合いさせながら生きています。そりゃあ時には上手くいかないのも当然です。
その中で、
コロコロ変わる中に、決して変わらない、根源の安心を頂く人生で良かったです。
私を願い決して離さない御慈悲を聞き受けられる命で良かったです。
同じ音を聞いても聞き方は人それぞれです。
御六字を聞き、うるさいと文句を言う人もいれば、
ここに仏様が届いておったと無上の喜びをかみしめる人もいます。
どの世界線で生きていくかは自由です。
お寺の鐘の声を聴き、うるさいと苦情を入れる人もいます。逆に、その音に仏様を味わい、自らの命に届き、願って離さない御慈悲を喜ぶ人もいます。
最近お聞きした話です。
ある和歌山のおばあさん。
「私がここに嫁いできたときにな、お母さん(義母)から言われたことがある。それがな、『ここの村には宝物があるぞ。毎日響くあのお寺の鐘の声、あの宝を頂いとる村なんや』やった」
鐘の声を、宝と表現したそのお母さんにとって、鐘の声はただの、人が叩いて鳴らしている〇〇デシベルの音ではありません。
そこに、仏の願いを聞き取り、自らの命のありさまを聞き取っていたのでしょう。
この命がどこへ向かい、今なぜここにあるのか。ここに確かな答えをもらって、帰る場所を頂く人生を、その鐘の声に聴いていたのでしょう。温かいことです。
都合の良し悪しで生きている中に、変わることのない確かな温もりを頂くことの力強さでもあります。
そのことを聞いていた時に、
浅原才市さんの歌を思い出しました。
「わたしゃしやわせ よい耳もろた
ごんとなったる鐘の音
親のきたれのごさいそく
浄土へやろをの 親のさいそく」
御六字、お念仏は、私が仏様に届ける呪文ではなかった。
向こうから届いた、浄土から一本筋の通った、仏様の仰せでありました。
称えたままが、喚ばれている姿である。
聞こえたままが、仏の姿であった。
この不思議にからめとられる時、御慈悲の中であった喜びも共にあります。
南無阿弥陀仏