杜子春
皆様、こんばんは。
今週は陰山です。
今年でブログを始めて4年目に入りました!
いつも見てくださっている方も、本日初めて見てくださった方も、スキを押してくださる方も、コメントくださる方もありがとうございます。
4年目もどうぞよろしくお願いいたします。
子供達の相手をするにも体力の衰えを感じ、少し前からランニングを始めました。
以前は音楽を聴いていたのですが、最近はYouTubeで短編小説の朗読などを聞いています。
先日は芥川龍之介の『杜子春』と共にランニング、懐かしい話に耳を傾けていました。
少し物語の説明をしたいと思います。
というお話です。
いつこの話を聞いたのか、記憶が定かではありませんが、小さい時から好きな話でした。
なんとなく好きな話として覚えていましたが、改めてなぜ好きだったのか考えてみると、つまり親心が温かかったのだと思います。
杜子春は、自分のこと、また自分の置かれた境遇に悲観することしか考えていなかったのに、ふと亡くなった親の言葉が思い起こされます。
自分より子を先にする、その親心に気付いた杜子春に、自分を重ねていたのだと思います。
世間にも自分自身にも嫌気が差し、このいのちを虚しくしか見ていけなかった杜子春は、その親の心が届いた時自分のいのちの輝きに気づく訳です。
杜子春も両親も、どうやら地獄行きのいのちを生きてきたようです。
親が子を育てる時には、綺麗な選択ばかりではどうにもならない現実があるのだと思います。
親を思う子も同じかも知れません。
特別な親子の物語ではありません、親の子に生まれ、また子をもつ親となった私自身の話です。
阿弥陀仏は「お前を必ず仏にするぞ」と、迷い続ける私を想い続け、願い続けてくださっている仏様です。
好き嫌いなどと言ってはいけないかもしれませんが、私はそこが好きなんです。
それは決して私の煩悩を肯定してくださるということでもなく、都合よく私の味方をしてくれるという話ではありません。
むしろ日々嗜められることの方が多いように思いますが、嗜められつつも常にこの私を抱き取ってくださっています。
言わずもがな、現実は様々なことが起こります。
杜子春のように、その現実から逃げたり悲観したりしてしまう私ですが、そんな私に「そうじゃないよ、豊ないのちを生きてるのだよ」と、嗜めてくださる仏様です。
親が大切に思ってくれるから、私は私を大切に思える。
親が私を願ってくださるから、その願いは私の願いになります。
その願いと共に一日一日の日暮らしを送っていきたいものです。
余談ですが、この『杜子春』、元は『杜子春伝』と呼ばれる中国の古伝が元になっているそうで、 さらにその前を遡ってみると、玄奘三蔵の『大唐西域記』の中に出てくる鹿野園の「救命池の伝説」という話が元になっているそうです。
称名