暑い日が続きますが、虫たちの声が秋の予感を知らせます。
如来様が私のいのちにご一緒下さいます。
どのようにご一緒くださるのか。私の声となってご一緒下さいます。ナマンダブナマンダブと、私の喉を震わし、私の耳に聞こえてくださって、私の心に響いてくださる、そのような姿をおとりになり、私がこの世のいのちを終える時に、お浄土に生まれさせ、仏と変えなしてくださる。
私の愛憎をそのままに、おさとりに転じてくださる程の強烈なおはたらきを私の上に実現くださいます。
陰山さんが書いておられましたが、如来さまは私を仏の子としてご覧になられます。
御開山が御本典の中にご引用になる涅槃経というお経に出てくる一文です。「お前は仏の子なんだよ。どうかそのことに気付いてくれよ」というおはたらきが私に届いてくださっておると味わっております。
そんな曲が昔ありましたね。
メダカの子どもがメダカになるように、オタマジャクシがカエルになるように、ライオンの子がライオンになるように、ヒトの子がヒトになるように、子どもは親と同じ姿形をとるようになるという性質があります。
如来様がわたしのいのちを仏の子とご覧になるということは、仏となるいのちを今生かされているのだということです。
何とも、勿体無い話です。
しかし、だからと言うて「俺は仏となるんだぞ。凄いだろ。どうだまいったか」と奢るわけでは無いですね。ご法義に生きてくださった先輩方は誰もそんな姿を私に見せませんでしたし、何より御開山はそんな人では無かった筈でしょう。
私から見れば、どこまでいっても我が都合しか知らんいのちです。人の都合など見えもしないし、見ようとも思わない。見ようと思って大騒動する人もおりますけど、他人の都合を見ることはできません。
いや、私自身の都合も、実は知らんのでしょうね。そこまで言うつもりも無かったけれどもつい口をついて出た一言が他人を傷つけた、という経験がありはしませんか。自分ですらこの暗く汚い心の深さを知らない。どこから生まれ、どこへ向かっていくいのちなのか、私のことでありながら私の中に答えを見出すことが出来ない。
他人の都合も知らん、私の都合で生きておるけれども、自身のことすら本当は知らんのが、私なんでしょうね。
その私を、如来さまは仏の子とご覧になられる。
Bette Midlerというアメリカの歌手のThe Rose という曲があります。私の父が好きなんですが、なぜ好きなのか知りませんけども。以前如来さまのお慈悲を歌ってくださっとると言っておりましたから、好きなんでしょう。
毎度の如く英語があまり得意ではありませんが。
私の上では身を焦がし、心を引き裂かれんほどのものになり得る愛。愛憎と言いますが、愛と憎しみは紙一重ではありませんか。ちょっとしたきっかけが、いとも簡単に愛を憎しみに変えてしまう。あれ程好きだ何だと言うておったのが、いつの間にか大嫌いでたまらんようになる、いやそれどころか恨みつらみを抱えるほどになることもある。そのようなコロコロと変わり続ける心を抱えて生きていかにゃならん私のいのちの現実があります。
一体この私のどこに愛と憎しみを超え、生と死を一望の元にご覧になる智慧をそなえた仏になるものがあるのか。
そんな私を、仏の子としてご覧になる如来さまがご一緒です。お前は仏の花開く、その種なんだよと私をよび続けておられます。いや、その種に私がなってみせましょうと私の声の仏さまとなることをお選びくださいました。
そのことに目が向いた時に私は変わるようになっとるんでしょうね。私が偉くなるとか、心が強くなるとか、この愛憎が消えてしまう訳ではないけれども、如来さまのおはたらきがこの私の身の上に現れ出てくださるんでしょうね。
ナンマンダナンマンダ