なぜ生きる
7月に入りました。
今週は佐々木です。
暑いですがいかがお過ごしですか。
「今の命が終わったら、生まれ変わる。として、もう一度同じ人生を歩みたいか。」
という質問をされたらどう答えるでしょうか。
簡単に格好良いことは言えますが、正直改善したいポイント、他人を羨む感覚は厳然と存在します。
しかし、浄土真宗の御法義を喜ぶ人は、たとえどんなに都合が悪い人生に見えたとしても、悲しみと共に喜びもあるのではないかな、と思うのですがいかがでしょうか。
思い通りに生きられません。
お釈迦様が言った「人生は苦なり。」という言葉に救われたんだと話す人を見たことがあります。
なんで私は思い通り生きられないのか、この命にどれほどの価値があるのか、と思う時に、お前ひとりではないのだよと、お釈迦様の言葉を聞いたのでしょう。
仏様がご一緒です。独り悲しい私も、楽しい時の自分も、分け隔てなくご心配の仏様がいらっしゃいますよ、と、親鸞聖人は、阿弥陀様のご法義、浄土真宗を伝えてくださっています。
凡夫の情、凡情を無視しない点が、ご法義の本当に素敵なところです。
誰一人、置いてけぼりにされません。
その一人が置かれていくようなら、私はお悟りを取りません、とまで誓った仏様を、阿弥陀様と聞いていきます。
そうかそうか
私が目当てだった。
私一人を救うためのご法義でしたね、と
喜べる人に、反省はあっても後悔はないのかもしれません。
この人生の中では、いろんなことがありました。
何が起きてもおかしくない娑婆へ生まれ、何かが起きて振り回されてきました。
しかし、
遇うべき言葉にであい、
遇うべき人にであえました、
と、そこに喜びが伴う人生が実現するならば、それこそ、本当に素晴らしい人生だと、私はいろんな人にその背中を見せてもらっています。
最近、「怪物」という映画を観ました。
様々な角度から、登場人物それぞれの情景を描き出し、誰が怪物なのかを問うていく作品です。
「怪物の孫」という映画も観たので、最近怪物縁が深いのですが、
それぞれの内容については触れません。
「怪物」の挿入曲を担当したのが、映画公開の直前にお亡くなりになった、坂本龍一さんです。
そのエンディングに使われた曲が「hibari」。
この曲が妙に記憶に残り、帰ってからも気になっていたのですが、
今のところ思う、気になった理由としては、
あえて不協和音が使われる、しかし調和がとれている、という点が理由かなと思っています。
怪物と呼ばれうる様々な登場人物が織りなす関係性が映画で描かれていましたが、その全てが一つものであり、他人事ではない、ということを暗に示しているのではないかな、と想像します。
坂本さんは、不協和音のみで作り出す楽曲も作っていたようです。社会、政治の問題にも積極的に関わった人であればこそ、現に取りこぼされる存在へ目を向けざるを得なかったのではなかろうかとも思います。
お浄土とは、自分と他者を超えた、一つに溶け合う世界です。
しかし自他不二、全てが一つと言われても、その通りに感受していくことができない我々の為に、お釈迦様が言葉にして経典を遺してくださいました。
そこに述べられる、お浄土とは、
どんな個性すら光り輝く、どんな者とも出遭っていける世界です。
不協和音ですら、鮮やかな音を奏で、その音色は仏法を説くのだと表現されます。
取り残される者はいません。
どんな命でさえ、なければならない。
文字通り、かけがえのない存在として、その浄土を荘厳していく存在であります。
何一つかけても荘厳は成り立ちません。
我々はそれほどに、阿弥陀様に願われているのだよと、命を懸けて伝えてくださった先輩方がいます。
そこに、後悔の入る余地のない、まっさらな生き方が実現されていく。その先には、どんなものも見捨てず救いとる、お悟りのはたらきをわが身に実現していく。
このことを告げてくださっているのが、親鸞聖人、浄土真宗ではなかろうかなと、
汗が止まらないこの暑さの中思っております。
お身体お大事に。
と言っても、人間の命が尊いからお大事に、と言う意味よりも、
阿弥陀様が願った命だからこそ、お大事にさせて頂かなければ勿体ない、
という意味合いで、我が身にも言い聞かせます。
称名
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