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トルクレンチガールズと魚雷

トルクレンチガールズが解散を発表しました。残念です。解散発表の前にLINEでうまこから解散報告が来たとき、しばらく頭が真っ白になりましたが、解散する理由はすぐに察せました。まだまだ活躍を観ていたかったですが、2人が悩み抜いた末に出した決断なので無責任なことは言えません。とにかくいい人生を歩んでほしいです。

魚雷2倍速はトルクレンチガールズの歴史とともに歩んできたと思っています。最近は一緒になることもほとんどなくなっていましたが僕は勝手にずっと意識し続けていました。この二人はこれからどうなっていくのか、どこまで行けるのかという興味が半分と、どこまで我々を引き離していくつもりなのかという嫉妬とが半分ずつありました。とにかくアマチュアで、社会人で、お笑いを趣味として舞台に立つ人間として、トルクレンチガールズの存在はずっと大きくて眩しかったです。彼らの初舞台から現在の活躍まで約7年しっかりと見届けることができたことを誇りに思います。うまこに至っては関西大学のお笑い大会で出会ってからまる10年になります。僕の1年後輩だったうまこは当時「ラロッカ」というコンビを組んでいて、初めて見た印象は「大学生なのにプロみたいなすごいやつがおる」でした。まだ関大にお笑いサークルも学生芸人という概念もない時代でした。お笑いが好きだから大学生の時くらいお笑い芸人みたいなことしたいという軽い気持ちで出場した大会にこんなプロみたいな大学生がいてびっくりしたのを覚えています。その後僕が当時組んでいた「モテモテパトラ」というコンビとうまこの「ラロッカ」はその大会でともに決勝に連続出場し、予選ブロックでぶつかって勝ったり負けたり、最終決戦を争ったりとかをしていました。結局その大会は客席に友達をいっぱい連れてきた陽キャのコンビが票をいっぱいとって優勝しちゃうような大会だったので僕らとラロッカは最後まで優勝することはありませんでしたが、僕は面白い同年代の子とお笑いで競い合えるという状況が嬉しくてたまりませんでした。卒業する前にモテモテパトラは居酒屋の誰も使ってない3階のスペースを利用して完全手作りのなんちゃって単独ライブをやりました。ゲストとしてすぐにラロッカに声をかけました。単独は大盛況におわり、その勢いで「NOROSHI」という全国の学生芸人のお笑い団体戦にラロッカと出ました。2014年当時の関大にはお笑いサークルがなかったので「BEPPINSAN」という架空のお笑いサークルを作り、ラロッカが漫才、モテモテパトラがコント、魚雷がピンという、漫才がどうしても弱い僕らにとってなんとも心強い完璧な布陣で挑むことができました。これはうまこもいろんなところで話していることなのですが、結果としてその「NOROSHI」ではコントとピンの点数に比べて漫才の点数が伸びず、惜しくも予選敗退となりました。うまこがすごく申し訳なさそうにしていました。申し訳なさそうにしてんなって思ってました。ほどなくしてみな大学を卒業し僕らは社会人になりました。僕もうまこもプロの芸人になるつもりは一ミリもありませんでした。なので卒業した後は2度とお笑いやることはないんだろうなと思っていました。そう思っていた矢先に出会ったのが中岡フェニックスさんが主催するアマチュアの社会人限定のお笑いライブ「ブンブンライブ」でした。2016年当時、関西でプロの芸人が出ないお笑いライブというのは非常に珍しく、僕はそんな場所があるとも思ってもなかったので「本当に?いいの?」と思いつつ、社会人になってからも「趣味でお笑いができる」という貴重な場所に僕はすぐに飛び込みました。僕の社会人お笑いとしての初舞台でした。同じ日にうまこもエントリーしたということを聞きました。またラロッカの漫才が観れるのかと思って来てみたら、知らないスキンヘッドを連れてきていました。トルクレンチガールズの初舞台でもありました。その後、魚雷2倍速とトルクレンチガールズはブンブンライブを中心に数か月に一回程度の本当に趣味の、お笑いを「嗜む程度」の活動が始まりました。素人なのに「活動」とかいうのも恥ずかしいことだと思っていました。「やってみたいネタがあってそれを誰かに見てもらいたい」と思った時に出るというただそれだけ。その場にいる人を笑わせてそれを楽しむという単なる趣味のお笑い。「ここからいつかスターになろう」なんて思うわけもありませんでした。ネタを披露できる場所があるだけで嬉しくてただ楽しかった。その後、徐々に僕らのような「趣味でお笑いをする」人の数が関西でも増えはじめてきて、アマチュア社会人限定のお笑いの大会がよく開かれるようになりました。2018年、しょっぱいパンさんが「NOROSHI」を模したアマチュア限定のお笑い団体戦「アマ笑杯」を開催しました。学生芸人大会の「NOROSHI」同様、漫才とコントとピン芸をチーム内で3ネタ披露しなければならないということで、即トルクレンチガールズに声をかけました。新生「BEPPINSAN」を結成し、トルクレンチガールズが漫才、モテモテパトラがコント、魚雷がピンでアマ笑杯に出場しました。3ネタの合計点で見事予選ブロックを突破し最終決戦に進みました。ここは完全に自慢になるのですがこの時も僕のピンとコントがすごくウケて漫才よりも多くの票を獲得していました。当時のトルクはまだアウェイの環境で力が十分発揮できていないという感じがありました。僕は鼻が高かったです。
その半年後に、今度は「アマ笑杯」の団体戦じゃない個人戦の大会が開催されることになりました。つまり次はトルクと敵同士で戦うということでした。僕は自信もつけていたこともありその大会でめちゃくちゃ優勝するつもりでした。とても気合が入っていました。でもそれは阻まれました。トルクレンチガールズがメタクソウケて大優勝することになるからです。正直半年前とは見違えるほど「ウケる」ようになっていました。もともとうまこは面白いネタをしてはいましたが以前と比べ力学のお客さんをつかむ力が驚くほどついていました。今のコミカルツッコミの形はこのときに出来上がったかのように思います。力学の覚醒の瞬間でした。僕もブロック予選を突破するくらいには出来は良かったのですが、決勝で全くもって歯が立ちませんでした。敵になった瞬間こんなウケるようになるなよと思いました。悔しかったです。でもずっと知っていたトルクレンチガールズがアマチュアの大会で初優勝するというのは素直にうれしかったです。と同時にアマチュアの大会でもうトルクには負けたくないと思いました。わかりやすくライバル視するようになりました。
また半年くらいして「ブンブンライブ」主催の中岡フェニックスさんによりアマチュア限定の大会「ブンブンチャンプ」が開催されることになりました。すぐにリベンジのチャンスが来ました。トルクも当然出るとして、その王者感を出してくるトルクを抑えて絶対に優勝してやろうと思いました。結果、僕は予選すらも突破できずに散りました。気合が入りまくってただけにかなり悔しかったです。でもそれ以上に悔しかったのは、当然のように決勝に進んだトルクレンチガールズが、アマ笑杯で優勝したとき以上の大ウケで審査員全員に大絶賛を受けて圧倒的な優勝を果たしたという事実でした。次元が違うと思わされるくらい完璧な漫才でした。勝てるわけないじゃんって思いました。くらってしまいました。くらいすぎて眩暈がしました。観覧に来てた家本とうふくんが「このコンビがアマチュアのまま世に出ずに終わるのがもったいない」みたいなこと言っていてそれもくらいました。圧倒的な実力差をつけられてトルクが遠くにいってしまうような気がしました。
ほどなくしてコロナ期が来てライブがなくなりコロナがあけはじめた2020年秋頃、Bar舞台袖が出来、「二足のわらじ」という社会人限定のバトルライブが始まりました。その各回の一位だけが3月の兼業芸人王というチャンピオン大会に進出できるというものでした。僕は記念すべき第一回「二足のわらじ」で一位をとり、早々に兼業芸人王出場権を得ていました。トルクも出ていました。この時僕はtiktokでフリップネタがバズるように、モノマネ以外のネタの幅も広がってそれなりにまた自信をつけ始めていたころでした。一年かけて、200近いフリップネタを作り、すべて舞台で試して叩いて直してを繰り返し、ベストアルバムのような4分ネタを大会までにガチガチに仕上げることができました。今度こそ負けないと思って臨んだ兼業芸人王の当日の僕のネタはほぼノーミスでウケも申し分なく、終わったあとにガッツポーズできるほどかなり手ごたえを感じました。これで負けたらもう無理って思いました。しかし優勝したのは、またしてもめちゃんこウケたトルクレンチガールズでした。もう勝とうとしちゃいけないじゃんと思いました。いよいよ手が届かないすごい存在になってしまうんだと思いました。
その後程なくしてWEST ANTSが発足し、アマチュア社会人芸人のトルクレンチガールズがそのメンバーに大抜擢されていてプロの芸人みたいなかっこいい宣材写真とともにお笑いナタリーに載っていました。その現実離れした光景にもさほど驚くこともありませんでした。社会人のまま芸人としてスターになれる前例がこれから生まれようとしてるんだと思いました。WEST ANTSとしてゴリゴリにプロの芸人さんと交わり、アマチュア社会人お笑い界隈の枠から飛び出したあとも、プロに全く見劣りしないほどの活躍で結果を出し続け、みるみるうちに知名度をあげていきました。いつのまにか自分らのことをフリー(プロ)と自称するようになっていました。急に令和ロマンさんと同期とか言いだしてました。すげえ嘘じゃんって思いました。2018年のトルクはどう考えてもアマチュアでした。自分たちをプロだと思って活動してたわけがありません。つまり、いよいよプロとしての責任感を持って、芸人としての務めを果たしていく覚悟を決めたんだと思いました。(アマチュア)でいたほうが絶対楽なのに。平日フルで働いて退勤後や休日にライブが詰まっていて、空いてる時間でネタも作って練習しなきゃいけなくて、しかもそのネタが一緒に出てるプロの芸人さんと遜色のないくらい面白いネタでなければならない。自分に置き換えてみてもこんな異常なことをやってのけるなんて考えられないです。あり得ないです。そんな考えられないことをここ二年ずっと二人はやり続けていたはずなのにトルクレンチガールズは僕が見る限りその向けられる期待に全てこたえ続けていた。ずっと凄かった。ずっと面白かった。おそろしかった。でもやっぱり大丈夫じゃなかった。もう十分だよ。十分すごい光景を見せてくれたよ。祇園花月を釈迦ポテで爆発させてる姿、あらびき団で大イジリされて跳ねてる姿、霜降り明星の「だましうち」と同じスタッフで冠ラジオをやる姿、ブンブンライブに出てた頃からしたら想像もできなかったしそんなことになるなんていう発想にもならなかった。十分夢をみせてくれた。トルクレンチガールズというすごいアマチュア社会人コンビがいたということはずっと忘れないし、今後も語り継がれていくコンビだと思う。結局トルクレンチガールズと魚雷2倍速は同じところで競いあって一緒に凄いとこまであがっていくことは出来なかったけど、トルクとは違う方向から魚雷2倍速も凄いところまで登って行って最終的に大きい舞台とかで2組共演できたらいいなとか僕のYouTubeの調子が上がり出したときからぼんやりと夢見ていた。結局夢のままだった。でもいい夢だった。

今まで積み上げてきたものを自分の手で無くすというのは並大抵な決断ではなかったと思う。どうかその決断が二人の人生にとっていいものであることを願います。最後の舞台、2023年1月25日まで突っ走って下さい。

野村魚雷2倍速















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