緋田美琴は凡人である
3年前に初めて私たちの前に姿を現した美琴は、常軌を逸したレッスン量であったり、その根源となる並々ならぬアイドルへの執着から、非凡であるという印象を植え付けた。
事実彼女は業界人からの覚えも良く、テレビ局を歩くだけで多くの人間から挨拶を貰う存在だった。様々な人間からその実力を買われていたその姿に、眩しさを感じた方も多いだろう。
しかし、ここで改めて主題を主張しよう。緋田美琴は凡人である。愛してやまない担当アイドルであるが、そう言わざるを得ないのだ。
美琴が凡人たる所以
まず第一に、精神性の話からしていきたい。一番良いものを作りたい、という精神は商業として成功することとは関係がない。そして残念なことにこの世界では、自分が思う良いものを作ることで評価されるのは本当に一握りの人間だけだ。
美琴は長い長い下積みを経た上でようやくデビューにこぎつけている。そして、SHHisとなってから知名度が上がったという言及であったり、番組内での他タレントからの美琴への扱いを見るに、彼女は業界の中で絶大なポジションを得ていないこと、一般的な知名度はそこまで持っていなかったことが見て取れる。それが指し示すのは、彼女がその一握りの人間には含まれないという事実だ。
アイドルを仕事として選んだ以上、そこには商業的な意味合いを持つのは当然のことだ。いいダンスと歌を披露できればそれだけで仕事になる、それはあまりにも理想論が過ぎる。実際のところ芸能界においてコネクションや営業活動といった地道な活動がどれだけ大事なことかは、彼女自身が一番よくわかっているはずだ。よく知らないタレントよりも、同程度の知名度であれば懇意のタレントを起用するというのは、番組作りでよく聞く話であるし、人間の心理として当然のことだ。美琴は圧倒的な基礎力や知識量からダンサーやトレーナーからの評価や信頼を得ているが、仕事として起用する側である番組プロデューサーやディレクターとの関係描写は露骨に少なくなる。言い換えてしまうと、売れるための努力をしていないとも取れてしまうのだ。
七草にちかは天才である
美琴を天才と評する一方で、にちかを凡人だとする言説を、ここ数年よく見かけてきた。しかし私は思うのだ。専門的な知識を得ていない状態から芸能界に飛び込み、血反吐を吐きながら努力を積み重ねて「SHHisのちょっと上手くない方」と評価され、更にはバラエティで幅広く活躍でき、あの透から「めっちゃうまい」と言わしめるにちかこそが天才であると。
『モノラル・ダイアローグス』等で描かれるにちかの内心の独白から、バラエティにおける立ち位置の獲得は彼女の計算の上であることが見て取れる。誰もが売れようと必死な中、どう振舞えばウケて、誰に対して掛け合いをすれば自身の立ち位置を獲得できるかを計算できる16歳を、天才と言わずしてなんと言うのか。
にちかは「美琴さんが綺麗でいるためなら」と、半ば汚れ仕事を引き受けるように仕事を請け負ったが、それこそが売れることに繋がるのはよく出来た皮肉だ。「完璧じゃなくても、キャラが立ってて推せればいいアイドル」に、美琴の相方であるにちかがなったのだから。
パラレルコレクションという絶望への可能性
6th Anniversaryの一つの目玉として、新ガシャシリーズである『パラレルコレクション』が実装されたのは記憶に新しい出来事だ。友人知人達が自身の担当の未来の話をしている中、私は美琴の未来を二つ幻視した。自分の理想を叶えて理想の舞台に立つ未来が一つ。そしてもう一つは、心のどこかで「こんなはずじゃなかった」と嘆きながらステージに立ち続ける未来だった。
当然のことながら、シャニマスという物語上、美琴が本当にそういった未来を辿ることはないだろう。しかし、彼女はあまりにも理想論で動きすぎる。もしもいつかにちかを失ったら、283プロではなくなったら、美琴がそういった未来に行きついてしまう可能性を否めなかった。美琴はステージに憑りつかれている。何があってもステージを降りることはないだろうし、降りる姿を想像することも出来ない。だからこそ、何かの拍子で歯車が狂ってしまった時に、転げ落ちてしまう姿が容易に予想できてしまったのだ。
この悲観は私が勝手に考えてしまったものであり、美琴が実際に辿る未来を観測しなければ解消されないもの――つまりは永遠に自分の中で渦巻き続けるものだと考えていた。しかし、本当に予想だにしないタイミングで、救いを得ることが出来た。
Anniversaryは美琴への救いだった
6thLIVEではライブ中、DJタイムという楽曲シャッフル企画があった。1日につきアイドル1人をDJ担当にし、様々な人選で楽曲を歌わせるという企画だ。横浜初日では「小糸ちゃんには!!!!人の心が無い!!!!!」と満面の笑みで叫ぶプロデュンヌさんを帰り道に見かけたりと、大変好評な企画だったのだが、その2日目に披露されたSHHisによる『Anniversary』。これこそが、上記の考えを根底から否定してくれるものだったのだ。
Anniversaryは今の美琴には歌うことが出来ない楽曲だと、会場で聴いた時に真っ先に感じた。2番から歌い始める時点で意味合いを多分に含めていることは想像に難くなかったが、今の2人の関係性では歌いきれない歌詞、今の美琴が辿り着いていない地点からの歌詞が散見されたのだ。そしてそれには、SHHisとしての2人の関係性の完成形を垣間見ることが出来た。何があったとしても、2人は2人でいるのだと。
美琴はにちかなくしてアイドルたりえない。逆説的に言えば、にちかさえ美琴の隣にいてくれれば、彼女はアイドルになれるのだ。
私は見逃してしまったのだが、実際にオーディオコメンタリーにてこのAnniversaryが2人の未来であると言及されていたらしい。このnoteを書くにあたって大きく背中を押してもらった。
理想論の力
商業的なエンタメにおいて、妥協というものはつきものだ。設備が100%理想のものであることはないし、十全な準備を行った上で本番を迎えることは極稀だ。生きるためにはお金を稼がなければならないし、その工程で人間関係であったり仕事の仕方においても常に妥協を迫られる。そういった面で、美琴の考えは甘すぎると言わざるを得ない。
しかし、理想論でしか持ちえない力というものは存在すると私は声高に主張したい。理想というものは純粋だ。願いで構成されたそれは、妥協を迫って来るあらゆるものを跳ね除け、ただただそこに存在する。それを追い求めることが、どれだけ困難で、どれだけ美しいものか。美琴は10年間それだけを追い求めてきたのだ。その足跡は、あまりにも尊い。
そもそも、美琴は商業的な売れ方についてもすべて承知の上で理想論を語っている可能性が高い。「アイドルになりたい」という言葉は、美琴を代表するフレーズの一つだと勝手ながら考えているが、これはつまり自分がアイドルではないという考えを持っている証左だ。彼女が言う『アイドル』とは世間一般的な言葉の意味合いではなく、彼女が目指す道の先にある到達点のことなのではないだろうか。つまり美琴にとっての『アイドル』は、理想論の果てに存在する。
非凡なる凡人緋田美琴
愛すべき担当アイドルを凡人である、と結論付けている私だが、恐らく美琴は初めから自分のことを天才だとは思っていない。そして、天才であるか凡人であるかなど彼女にとってはどうでもいい事なのだ。良いパフォ-マンスをする、ただそれだけを貪欲に追い求める求道者なのだから。
私は長らくにちかが嫌いだった。自分で自分のことを傷つけ、血飛沫を周りに振り撒くにちかを見て、よく腹を立てていた。
しかしにちかは、誰よりも早く美琴の美しさに気付いていた。その美しさを守るために誰よりも早く行動をしていた。そして、その美しさを目指すことを、諦めないでくれていた。今や私がにちかに対して抱いている信頼は、比類ないものになった。美琴を芸事の求道者として純粋なままで存在させてくれるのは、にちかをおいて他にはいない。
理想論を追い求める非凡なる凡人緋田美琴と、一緒にその理想へ手を伸ばしてくれる天才七草にちか、それこそが彼女達SHHisなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?