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泉鏡花原作「外科室」 翻案 夢乃玉堂

幻想文学の先駆者としても知られる泉鏡花(1873年-1939年)原作の「外科室」を朗読用に翻案、加筆したものです。
声に出して新たな作品としてお楽しみください。

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「もはや芸術を語る資格はない」
高潔な魂が眠る墓前で、私は後悔と自責の深い淵に沈んでいる。

四日前、私は驟雨を突いて走る人力の上で不健全な期待に胸躍らせていた。
「実のところを言えば、低俗な好奇心だったのだ」
独り言(ご)ちた言葉は、そのまま自分を責めた。

親友の医学士、高峰が、麗人の誉れ高い貴船(きふね)伯爵夫人の手術を
執刀すると聞いたのは、半月ほど前。私はすぐさま
「絵師として手術に立ち会いたい」と申し入れた。
前例がない、と幾度も断られたが、
「難しい手術の記録のため」、
「美的見識を広げるため」などと高峰が好みそうなストイックな
口実を並べたて、ようやく昨日
「精進したまえ」と立ち会う許可をもらった。


東京府下のとある病院。
湿気のこもった暗い廊下の奥、年配の女性たちに手を引かれ、眼を
泣きはらした七、八歳の少女が出ていくのと入れ違いに、私は外科
室に入った。

部屋の中央に吊るされた明かりが四方を照らし、赤十字の帽子を
乗せた看護婦たちの影が白い漆喰とタイルの壁に揺れている。
影の合間から、助手と思われる男たちに挟まれ、両腕を組んで、
椅子に座る高峰が見えた。
「大仕事を前にした気分はどうだ」
と、目で問いかけると、高峰は珍しくほっとした表情を浮かべたが、
すぐに冷ややかな、いつもの医学士の顔に戻った。

その横には、不安に押しつぶされそうな貴船伯爵を筆頭に、なにが
し伯、なにがし侯と呼ばれる親族たちが沈痛な面持ちで並んでいる。
そして、彼らが見つめる先、埃の数さえわかるほどまぶしい光の中に
手術台が置かれ、件の伯爵夫人が横たわっていた。
その顔色はあくまで白く、鼻高くして、おとがい細く。浴衣の前を
しっかり合わせているが、真一文字に結んだ唇と固く閉じた瞼が、
心の乱れを感じさせた。
突然背後の扉が開き、入ってきた背の低い腰元が伯爵に何やら
話しかけた。

伯爵が頷くのを受けて、年かさの看護婦が、高峰に軽く会釈をして
合図を送った。
「うむ。よろしい」と答えた彼の声は、少し震えを帯びて聞こえた。
『なるほど、冷徹な名医と言われる高峰でもすわという時には、
緊張をするものだな』と私はなぜか少し安堵した。
年かさの看護婦は手術台にすり寄り深々と立礼した。
「奥様、ただいまから、お薬を差し上げます。胸の奥までお吸い込み
頂ければ、いろはでも、数字でもたぐって頂くうちに自然とお眠り
頂けます」

伯爵夫人は無言のまま動かなかった。
「よろしゅうございますか。眠り薬を差し上げますので、手術の済み
ますまで、少しの間、お眠り頂きますね」
看護婦が念を押すように繰り返しても夫人はしばらく黙っていたが、
不意にはっきりとした声を響かせた。
「いや、眠り薬はよそうよ」
外科室の注意は一斉に手術台に向けられた。明るかった電灯が一瞬、
またたいたような気がした。
「奥様、それでは御療治が出来ません」
「ああ。出来なくてもいいよ」


また、いつもの我が儘か、という顔をして伯爵が光の中に進み出た。
「奥、無理を言ってはいけないよ。出来なくていいという事があるもの
かい。姫(ひい)の泣き顔を見ただろう。あの子のためにも、早く良くならねば」
それでも夫人は、頭(かぶり)を振り続けた。
「どうなさいました。そんなにお嫌いあそばさなくともよろしゅう
ございますよ。ほんの少し甘い香りがして、ウトウトしてるうちに
すぐ済んでしまいます。ちっとも怖いもんじゃございませんよぉ。」
看護婦が、幼子を諭すように話しかけると、夫人は眉をひそめ、
表情を硬くした。
優しい言葉を屈辱と捉える男は多いが女性では珍しい。高貴な
身分の御婦人なればこそ、言葉の中にほんの少し混じった嘲りを
敏感に感じ取ったのであろう。
やがて夫人は、屈辱に贖うように静かに語り始めた。
「お判りいただけるとは思いませんが、少しだけ理由をお話しし
ましょう・・・。以前、眠り薬を嗅がされた人は、心の中の事を、
うわ言で口走ってしまうと聞きました。
私は、心中にただ一つ、隠し持った秘密があります。
誰にも言えない、本当に誰にも聞かれたくないこと。
それが・・・ それを知られることが・・・怖くてならないのです。
だから、眠らずに御療治ができないのなら、もうよしてください。治らなくとも結構です」

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