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ジャズ・ミュージシャンとしての吉福伸逸さん。

 ここではジャズ・ミュージシャンだったころの吉福伸逸さんのことを少し書いてみます。

 吉福伸逸さんがジャズに目覚めたのは1961年、高校2年生のときだったそうです。この年の1月1日、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが初来日。メンバーはトランペットのリー・モーガン、テナーサックスのウェイン・ショーター、ピアノはボビー・ティモンズ、ベースはジミー・メリット、ドラムスはもちろん御大アート・ブレイキー。

 そのときの映像が残っていますが、まあ、かっこいい。

 彼らが演奏していたのは、いわゆるファンキー・ジャズ。若いメンバーによる激しくアツい演奏は、ある意味分かりやすく、日本人の心に刺さったのかもしれません。ショーターも、のちのマイルズ・デイヴィスのバンドのときのような変態プレイというよりは、ハードバップ的なソロを展開しています。

 ジャズ・メッセンジャーズによる日本ツアーは大反響を呼び、マスコミも大きく取り上げ、日本中にジャズ・ブームが巻き起こりました。「蕎麦屋の出前が口笛でモーニンを吹いていた」なんて逸話も残っていますが、これはジャズ評論家の油井正一さんによる作り話だとか?

 ジャズ喫茶も次々と出来て、自分もジャズを演奏しようという若者もたくさんいました。吉福さんもその一人でした。以下は吉福さんが早稲田大学を卒業するときに残した文章です。

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 私が吉福さんに聞いた話では、早稲田大学高等学院にもジャズ研究会が出来て、たまたまベースがいなかったので「お前、やれ」と、吉福さんがやることになったそうです。そのときの仲間の一人が、雑誌「インサイダー」の高野孟さんだとか! ただ、高校時代の同級生に聞いても「ジャズ研究会」なんてなかったという人もいます。ブラスバンド部のメンバーのあいだでも意見がわかれていて、吉福さんが「いた」という人もいれば、「いなかったと思うなあ」という人もいます。この頃の吉福さんはだいぶ影の薄い存在だったようです(のちの姿からは想像できませんが)。

 さて吉福さんは1962年に早稲田大学に進学、4月には名門サークル「早稲田大学ハイソサエティ・オーケストラ」に入部。2年生のときには上級生を抜いてレギュラーになります。この写真は1963年にNHKの番組「飛行館」に出た時のもの。ベースを弾いているのが吉福さんです。

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1964-02_練習場_02_Latin

 こちらは早稲田大学の練習場、いわゆる音楽長屋での写真。けっこう密ですね(笑)。

 早稲田大学高等学院の同窓会のサイトには、吉福伸逸さんたちハイソのメンバーが東京オリンピックの選手村で演奏したことが書かれています。

 以下引用。

 この時、9人の学院出身者がハイソのメンバーで選手村で演奏した。トランペットの宮原明、北川匡厚、由地信太朗、トロンボーンの笠原克信、中島正弘、テナーサックスの一宮弘文、ベースの吉福伸逸、パーカッションの伊佐早佑二、ギターでバンマスの浅沼肇の面々。選手村は広く、我々の移動は自転車だった。自転車は、自転車置き場が各所に有って誰でも自由に使えた。また、選手村の各所に大きな冷凍スボックスが設置されていて、森永、明治、等製菓会社各社がアイスクリームを提供して誰でも自由に食べられ、我々もご馳走になった。

 この1964年、吉福さんは大学3年生だったのですが、プロとしての活動も始めます。最初が東京芸術大学卒のピアニスト、渋谷毅さん。ピアニスト山下洋輔さんのグループに参加していたことが記録に残っています。大学3年生が山下洋輔さんと共演って、けっこう凄いことだと思うのですが(渋谷さんも山下さんも吉福さんのことは覚えていないとのことです)。

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 ハイソサエティ・オーケストラは、ジャズ喫茶ベイシーの菅原正二さんの話では吉福さんの代でレベルをぐっと上げたそうです。吉福さんさんが4年生の1965年には、「大学対抗バンド合戦」のビッグバンド部門でみごと、優勝を果たしています。

1965-1213_TBS大学対抗バンド合戦

 さて、吉福さんは1966年にハイソサエティ・オーケストラを卒業(大学はそのまま中退)。プロのジャズ・ミュージシャンとしての道を歩み始めます。その名前はほとんど記録に残っていませんが、ピアニストの市川秀男さんが以下のように証言されています(ジャズ評論家小川隆夫さんによるインタビュー)。

 以下、引用です。

 ジャズ専門の店でやるようになるのは、そのナイト・クラブに出ていたときに、どういうわけか忘れたけど、日野(皓正)(tp)さんの弟、トコちゃん(日野元彦)(ds)と知り合ったのがきっかけです。トコちゃんと早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラにいた吉福伸逸(b)さんとでトリオを組んで、「どこかでやろうね」と。ところがどこも先輩が出ているんで(笑)、やれるところがない。銀座に「ジャズ・ギャラリー8」があって、トコちゃんが「昼間、八木正生(p)さんのグループが出られなくなったので、代わりに出られるよ」。それがジャズ専門の店でやった最初。

——あそこが64年のオープンですから、そのちょっとあとぐらいかしら?

 そうでしょうね。そこでやるようになったけど、まだレギュラーでは出られない。何回か出たけど、そのうちトコちゃん経由でジョージ大塚(ds)さんと知り合ったのかなあ? そのあとに、新宿の「タロー」でジョージ大塚トリオが始まった。

 このほか「ブルーコーツ」でゲストプレイヤーとして参加(ということは、レギュラーではない)。ジョージ大塚のバンドのほか、先述の市川秀男さんと日野元彦さんのトリオにも参加。そののち、日野皓正さんのカルテットでも演奏したそうです(このことは日野さんにも確認しました)。吉福さんの話では、『マイルス・イン・ヨーロッパ』とか『マイルス・イン・ベルリン』とかの雰囲気だったと言っていました。

 そして大学を卒業した年の1967年、アメリカ西海岸への演奏旅行へと出かけることになります。

 しかし、大学生の頃の吉福さんの写真を見ると、僕が知ってる吉福さんと雰囲気が全然違うんです。「人は変わる」んだなあと改めてびっくりします。


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