謎の勢力
あやなかは、この10月から新人を脱し『普通の人』になり、あやなかを入社当時から指導してくれた先輩は(先輩と言っていますがもともと少し上司)、若いながらに出世して、この10月から『すごく上司』になりました。
今日、反対側の壁まで声が聞こえそうなくらい静まり返ったオフィスで、その上司が声をかけてきました。
「忙しくない?大丈夫?」
「全然です。ご心配、ありがとうございます」
上司さんこそ。
と言おうとして、私の中の謎の勢力が止めてきました。
私は知っています。
今日上司さんが11時から12時半まで会議に出て、そのあとご飯もそこそこに13時からまた会議に出て、休憩もなく14時半から重い会議に出て、席に帰ってきたのが16時半過ぎだったことを。そして業務終了のチャイムが鳴ったあと、また違う話し合いに出ていたことを。
「今日、あやなかさんが忙しすぎるんじゃないかって、会議の話題に上がってた」
そんなことを話す時間がもったいないじゃないか。何分話していたのか分からないけど、その話をしなければ、もっと早く会議が終わっただろうに。
「これは、本当に、偶々で」
電話が鳴ったり誰かに呼ばれたりする業務時間中より、静かな残業中の方が集中できるので、ミスが減る。それだけの理由。
頑張れば業務時間内に終わらせることもできると思う。頑張れないだけで。
キリのいいところで作業をやめた私と上司は、電気を消し、フロアを並んで後にしました。
タイムカードを切りながら、上司さんが
「知っての通り、社内外の色んな調整をしなくちゃいけなくなって。社内の困りごととか吸い上げて、って(さらに上司)さんからもお願いされてて。
だから何でも言って」
いつの間にか私の数歩先を歩いていて、背中が私に語りかけました。
その背中は、並々ならぬ覚悟と決意を持った人のそれでした。
私は、脳内の謎の第一党が言った『なにか起きたら、そのときは相談させていただきますね』という言葉をそのまま発するだけで精一杯でした。
上司さんと別れ、一人で駅に向かいながら、私はさっきのやりとりを反芻していました。
言いたいことは浮かんでいるのに、謎の勢力が止めてくるのは、きっと何か後ろめたいことがあるからだと、はっきり分かって。
そしてそれが、『頑張れないだけで』であったことに気が付いて、電車の中マスクの下で、私は、唇を噛みしめたのでした。
写真:写真AC