陶冶と邂逅と努力とチャンス
★この小論文は、『教育原理』という授業内で、あやなかが本名で2018年5月23日に提出したものです。
もうすぐ6月がやってきます。6月と聞くと、みなさんは何を思い浮かべますでしょうか。『物憂げな6月の雨に打たれて』と、私の好きなMr.Childrenが歌っているように、梅雨の季節のあのじめじめとした感じは、なんとも人を憂鬱な気分にさせます。しかし、私にとって6月とは、胸の内がざわざわとする季節でもあるのです。
私にとってはまだ現在形ですが、かつてAKB48というグループが世間をにぎわせていました。そのグループのコンセプトが『会いにいけるアイドル』ということもあり、それまでのアイドルがやってきたものとは全く異なる形でファンとの交流を図っていました。例えば、アイドルとファンが直接握手ができる、握手会です。私は一度も行ったことがありませんが。
他にも多くのファン交流のあるこのグループですが、彼女たちがアイドル界の頂点に上り詰めるきっかけとなったイベントをみなさんはご存知でしょうか。AKB選抜総選挙です。初めて聞く人はおそらくいないと思いますが、ここでこのイベントを説明しておきます。これは、次のシングル曲を歌うメンバーが決めるための選挙で、ファンはファンクラブの会員資格もしくは対象のCDに封入されている投票券を使って投票することができます。その開票過程がイベントになっていて、80位から順に発表されます。ランクインしたアイドルは、記念品を貰うとともにスピーチを行います。毎年毎年名スピーチが出るので、ファンもこのイベントを楽しみにしているのです。
勘のいい方はお気づきでしょうが、この開票イベントが、毎年6月に行われているのです。6月の私がどこか不穏であるそのきっかけも、この選抜総選挙の開票イベントでした。
その日のことを私は今でも、まるで昨日のことであるかのように鮮明に思い出すことができます。その日は高校最後の文化祭の日でした。部活を引退し、放課後の時間を自由に使えるようになっていた私は、文化祭も風紀委員の分際で仕切りまくり、クラス展示の成功に涙していました。文化祭のクラス委員の友達と、『文化祭も無事終わったね、打ち上げがてら今度遊びに行こう』と話しながら、意味もなくぶらぶらと寄り道をし、友達と別れ、家に帰りました。家に着いてみると20時を過ぎていました。
夜ご飯を食べていると、家族が『そういえば今日は総選挙だね』と言いながら、テレビを開票イベントの中継のチャンネルに変えてくれました。しかし、私はそのチャンネルを即座に変えました。なぜなら、普段テレビを見ない私ですが、この開票イベントのチャンネルと放送時間だけは事前に確認済みで、準備のいいことに録画までしていたのです。夜、家族が寝静まってから一気に見ようと思っていたので、ご飯を食べたり、シャワーをしたり、文化祭の関係者にLINEを飛ばしたりして、家族が眠りにつくのをひたすら待っていました。
やがてその時間は来て、家族が消したテレビを点け、録画した番組をDVDにダビングしました。ダビングしたDVDを、自分の部屋のDVDプレイヤーに入れました。もう0時を回っていましたが、全く時間は気になりませんでした。
私はスピーチが聞きたくて80位からずっと見ていました。それでも、私の好きな、1位になってほしいと思っていたあるアイドルは、4位で名前を呼ばれてしまいました。ショックでした。画面の中の彼女が泣いていました。私もそれ以上に泣いていました。一時停止のボタンを押し、自分が落ち着くのを待ってから、また再生を押しました。
ステージの上の彼女は、こんなことを言っていました。
『努力は必ず報われる』とは限らない。そんなのわかってます。でもね、私は思います。頑張っている人が報われてほしい。
ここでこのアイドルについて補足説明を加えると、彼女はこのグループの総監督を全うした人物であり、そのキャッチフレーズは『努力は必ず報われる』でした。努力は必ず報われると言っていた彼女が、努力は必ず報われるとは限らない、と言ったことに、私は大変な衝撃を受け、まるで体の一部が切り取られたかのような痛みが全身に走りました。学校行事を終えた後の、やる気に満ちた受験生の心を砕くには、十分すぎる言葉でした。
でもね、と彼女が言ったとき、私は全神経を耳に集めて続く言葉を拾いました。
頑張っている人が報われてほしい。
私はまた涙が出ました。その言葉は、決して私一人に向けられたものでもなく、もっというと、ファンに向けた言葉なのか、微妙なところではありましたが、私はこの言葉を、私に向けられたものだというふうに受け取りました。自分の応援するアイドルが、自分を応援してくれるのだから、ファンにとって、こんなにも嬉しいことはありませんでした。私は変に自信家であり、それに強すぎるポジティブ思考の傾向にあるので、ああ、頑張っている人は報われるのだろうなと勝手に解釈し、毎日どんなことがあっても努力を惜しまないでいよう、とこのとき思いました。
前置きが非常に長くなってしまいました。ここでやっと本題に入ります。
『努力は必ず報われる』。よく聞く言葉です。でも、高確率でその後ろに『報われない努力は、努力とよばない』と続きます。私はここから、2つの疑問を持ちました。その1:報われない努力が存在するのか。その2:報われない努力は、努力ではないのか。もしそうであるのなら、報われない努力は何とよぶべきものなのか。
『陶冶と邂逅』(森邦昭著)によると、陶冶つまり自分の持って生まれた性質を鍛えて伸ばすことが、困難に立ち向かう上で重要です。しかし、陶冶だけ積めばいいというものでもなく、邂逅つまり何かと出会うということがなければ、本来の自分自身に気づけないということです。総合すると、混沌とした社会の中で、自分自身というのはときどき見失われるものであり、陶冶を積むたけでは何を伸ばすべきか見失ってしまうので、邂逅にめぐり合い、ときどき自分を見つめなおすことが必要であるということになります。このことを前提に考えてみたいと思います。
陶冶、これをもっと簡単な言葉で言いかえると、努力という言葉になると思います。努力はしたほうがいい、するべきだ、ということに特に異論はないと思います。では、報われない努力は存在するのでしょうか。
努力が報われるとは、努力したことが実を結び、ある程度自分の望む結果に収束することだと考えます。もっと簡潔に言うと、努力が報われるとは、思い通りの結果に至るということです。そうすると、報われない努力とは、思い通りではない結果に導いたものを指します。
字数が少なくなってきましたので、結論から述べさせていただくことにします。報われない努力は、あると思います。報われない努力とは、失敗に終わった努力を指すのですから。みなさんも今までの人生の中で、失敗をしたことがあると思います。私なんかには、友達だと思って手を振ったら、全然知らない人だったことが、たまにあります。
ここで、さきほどから連呼している努力という言葉を、辞書で改めて確認してみようと思います。努力とは、『ある目的のために力を尽くして励むこと』(デジタル大辞泉)とあります。つまり、私が友達におはようと言うつもりで手を振ったことは、立派な努力にあたるわけです。
では、報われない努力とは、努力とは別のものでしょうか。私は、区別する必要はないと思います。でも、どうしても区別したいというのなら、違った名前をつけたらいいのです。成功に導いたものを努力とするのなら、そうではないものはそれこそ陶冶の過程だとか、研磨の過程とか言えばいいのではないかと思います。結局のところ、努力が報われなかったと判定する時期によって、成功か失敗かは分かれるものだと思います。先ほどの例を用いるなら、私は友達と勘違いして、違う人に手を振ってしまった。そこまでは明らかに失敗ですが、間違って手を振った人が、私の友達を連れてきたとかで、友達におはようと言えたのならば、それは成功にあたるのです。
困難に立ち向かうには、陶冶ともうひとつ、邂逅も忘れてはいけません。去年だったか一昨年だったか忘れましたが、ある芸人さんが女性に向けて、『(男を)探さない、待つの。』と言っておられました。モテようと努力を重ねている人が待つのならば、確かに探さなくてもタイプの男の人が寄ってくるかもしれませんが、取り立てて努力をしていない女の人が、大学に閉じこもっていたところで、警備のおじちゃんに発見されるだけです。邂逅とはえらく難しい言葉ですが、要するにチャンスとか、英語で言えばoppotunityが、努力を発揮させる『場』として必要なのだと思います。今まで私たちが経験してきたことから言うと、勉強、入試、合格のこの流れだと思います。日々の勉強が努力であり、努力を発揮する場が入試であり、入試の結果で合格をもらうという成功体験があって、努力は報われるのです。もし努力がなければ、目的がなかったことになるので、そもそも成功あるいは失敗の判断ができませんし、もし入試がなければ、努力はずっと努力のまま、目標を達成できたかわからないままになってしまいます。つまり、私たちが困難にぶつかったときは、陶冶と邂逅、努力とチャンスが必要になってくるのです。しかしチャンスはそう都合よく訪れてくれるものなのでしょうか。私は、チャンスを待っていては遅いと思います。上にも少し書きましたが、モテたい女性は大学に閉じこもるのではなく、出会いの場に足を踏み入れなければ、出会いというチャンスはないのです。
この4000字で言いたかったことは、努力が報われるには努力を発揮する場が必要で、努力が報われないのは、その過程を短期的な目で見すぎているかもしれない、ということです。そして、努力は報われないこともあるけど、報われなかった努力の先に、報われる努力があるかもしれない、としておきます。
ところで、私が6月になるとそわそわしてしまうのは、高校3年生のとき、あの総選挙を見ながら、自分に誓った『どんなことがあっても、努力を惜しまないでいよう』ということが実践できているか、不安になるからです。やりたいことは常にたくさんあります。それを、いろいろな言い訳をつけて適当にしていないだろうかと、自分を振り返ろうと思うのが、6月なのです。自分を自分で評価するということは、かなり緊張を伴う作業です。だから、心がなんとなく落ち着かなくなるのです。
もうすぐ6月がやってきます。冒頭で引用したMr.Childrenの歌は、innocent worldという曲です。この曲では、失恋した男が自問自答を繰り返し、最後には『微かな光を胸に 明日も進んで行くつもりだよ』と宣言しています。努力とチャンスを繰り返しながら、人間は成長に向かって行くのだと私は思います。
画像元; www.photo-ac.com/main/detail/438443?title=%E8%A6%B3%E5%AE%A220