あまつそらなる人を恋ふとて。 #2000字のドラマ
終わった。残りの高校生活、終わった。
昨晩は眠れなかった。この真っ赤な目は、誰が見ても何か言いたくなるだろうけど、クラスメイトはそっとしておいてくれた。
「先生、どうだった?」
…この人以外は。
「ああ、ごめん。ごめん楓」
昨日のことを思い出してまた、堰を切ったように涙が溢れてきた。
高校に入学してすぐ、マネージャーとしてサッカー部に入部した。入部当初は何の意識もしていなかったけれど、先輩が引退して自分たちの代になると、顧問である武山先生と話す機会が増え、気付いたら好きになっていた。
でも、好きなのは、私だけだったみたいだ。
「悪いけど、そういう目で見てないから」
うっ…。思い出すと、苦しくなってしまう。
好きにならなければ。好きって言わなければ。今この瞬間だって、先生を遠目で追いかけられたのに。どうして告白なんかしちゃったんだろう。
「俺で良ければ、いつだってそばにいるからさ」
「よくないんだよね…」
野島くんは笑って、それ武山先生と同じじゃん、と言った。
それから。
先生は私のクラスの授業を持っていないので、会うことはなかった。
でも。
優しくて、でも少し意地の悪いところもあって。笑うときに窄める口元、細くなる目。パーマのかかった髪の毛。毎日会えていたあの日々を思い出すと、心の奥がギュッと小さくなるのだった。
大学入試が終わり、あとは卒業式を待つだけとなった2月の終わり、一通のメッセージが届いた。武山先生からだ。
『受験お疲れ様。
ところで、卒業式の後の卒部式の教室、どこ?』
『ありがとうございます。
2-2です。』
私はすぐアプリを閉じた。
1時間後、そっとスマホを開けると、メッセージの通知が届いていた。
『ありがとう。
卒部式の後、時間ある?
渡したいものがあって。』
渡したいもの?
しばらく考えてみたけれど、心当たりがまるでなかった。
私が告白したことに対する改めてのお断りの文章だろうか。だとしたら要らないのだけれど、最後にどうしても会いたくて。
『はい。あります。』
と返した。
『有難う。では、車で待ってます』
「写真とりまーす。笑ってくださーい。
1・2・3」
一瞬静かになった2-2の教室に、シャッター音が響いた。
上手く笑えたかな。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
下級生からのいっぱいの祝福を受けて、私は高校を卒業し、思い出の詰まったサッカー部を引退した。
「楓」
声の主は、部長の野島くんだった。
「3年間、部活もクラスも一緒で、学校生活の全部に楓がいて。楽しいことばかりじゃなかったけど…楓がいたから頑張れた。ありがとう」
入学式から今日までの名シーンが、走馬灯のように脳内を駆け巡って行った。
本当だ。全ての思い出に、野島くんがいる。
「私もだよ。ありがとう」
急に別れの寂しさが込み上げてきた。
「大学決まったら、また連絡する」
「うん。待ってる」
「じゃ」
そう言って、卒業生の人ごみに消えていった。
頼りなく振った右手のぎこちなさが、より一層、別れの切なさを醸し出していた。
運転席の真横に立ったと同時に、窓が開いた。
「乗って」
助手席のドアが開いて、言われるがまま、車に乗り込んだ。
学校を出て、私の家の方へ進んでいく。
ラジオの音だけがする車内で、先に口を開いたのは先生だった。
「まだ言ってなかったな。卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
信号は赤だけど、目を合わせてはくれなかった。
…これでいい。会えただけ、ラッキーと思わなきゃ。
運転中に盗み見る先生の横顔。まるでアルバムを作るみたいに、目に映る全ての瞬間が写真となって、私の高校生活の最後の1ページに貼り付けられていく。
「どうだった、3年間」
「楽しかったです。部活とか」
そう言って、私は今できる精一杯の笑顔を先生に向けた。
「それは、良かった」
私はシートベルトを少し緩め、体を先生の方へ向けた。
「3年間。本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「こちらこそ。ありがとう」
先生は私を、横目で一瞥しただけだった。
車はどんどん進んで、私の住む町に入ってしまった。
あと数分で、家に着く。
「永安」
「はい」
「あの時は、ごめんな」
一瞬にして全身に力が入った。
目から温かいものが落ちそうになって、私は瞬きを装ってゆっくり目を閉じ、それを奥にやった。
「…いえ、こちらこそ。口走ってすみませんでした」
あの時。
好きとか付き合ってくださいとか言わなければ、今日だって楽しくおしゃべりできただろうに…
「嬉しかった。
自分だけじゃなかったんだ、って」
何かを言おうとした唇があまりにも震えて、口を一文字に結んで続く言葉を待った。
「でも、やっぱり、自分が教師だから…。
周りの女の子たちみたいに、彼氏とどこ行ったとか、そういう話がしたいだろうに、させてあげられない。
いちばん楽しい時期に、制限させてしまうことが申し訳なくて。
せっかくの好意を拒否してしまって、本当に、ごめんな」
私はなんて未熟だったんだろう。
自分のことしか頭になくて、付き合えた後のことなんて、何も考えていなかった。
教師と、生徒だから。
教師と、生徒…
家の前に着き、車が止まった。
「永安」
「はい」
優しい瞳は、今度は私のことを、しっかりと見てくれていた。
「ずっと、好きでした。
教師と生徒から離れて、『彼氏として』お付き合いさせてくれませんか」
留まれなくなった涙が、ぼろぼろと落ちてゆく。
「もちろんです…。よろしくお願いします」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を見られたくなくて俯いていると、大きな手が、私の頭を優しく撫でた。
夕暮れの空には雲一つなく、キラキラと光る新しい春が、私たちの前に広がっていた。
写真:写真AC