「島根、あや庵にて②」(渡辺あや)~【連載/逆光の乱反射 vol.32】
逆光の乱反射』は映画『逆光』の配給活動が巻き起こす波紋をレポートする、ドキュメント連載企画です。広島在住のライター・小説家の清水浩司が不定期に書いていきます。
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私が望んだ渡辺あやとのガチンコトーク。ちなみに渡辺は私の1つ上の先輩にあたるが、正直年の差以上に怯むところはあった。だってあの渡辺あやである。オトナとしての成熟度合いには雲泥の差がある。広島と島根で東京を語る不遜なトークは、次は京都に話題を移す。
渡辺 東京という街で大人が哲学的でいるというのはすごく難しいだろうなと思うんです。なんかそういう人には周りが勝手に敗者の烙印を捺してくるというか、街全体が勝者といえばまずは資本力、もしくは社会的影響力だと思っている。一方、京都は大人たちが真顔で「俺は負ける経済を目指してる」とかナゾの哲学を語ってたりするんですよね。「アイツはまだ勝てる経済やからアカン」とか。勝ち負けの意味が解体されている(笑)。
渡辺 蓮くんたちも京都ではザッツ草の根ってところに戻って、自分のやりたいことをやろう、と。着いた日から自転車で走り回って、自分の手でチラシを渡してましたからね。また京都は大人の人たちが素敵で、若い人たちを育てようという意識があって。若者たちもそんな懐の深い大人たちに憧れ、敬意を抱いている。大人を尊敬できるって、若者たちにとってはすごく嬉しいことなんだなって彼らを見ていて思いました。きっと自分もうそうなりたいと思えるんだと思います。
渡辺 私は祖父母のお墓が京都にあるんで、個人的にも縁のある街で。この10年くらいは何もなくてもよく行くんです。京都は街を歩いてるだけで何か教わってる感じがするんですよ。歴史を越えて受け継がれているものがあちこちにあって、それに触れると心の中のすごく深いところに沈み込んでいける感じがする。「ああ、こういうものが人の精神にとって本当に大切なんだな」と感覚で理解できるんです。
渡辺 そういうものに触れると人は自分の自我を少しだけ手放せるんだと思うんです。でも東京の街中ではなかなかそういうものに触れる機会がないから、自我を強く持っていないと生きていけない気がしてくる。何物にも自分を委ねられなくて自我を握りしめるしかない状態って、私も経験あるんですけどめちゃくちゃ不安だし孤独なんですよね。
渡辺 それも大人がちゃんとしてるからじゃないですかね。大人との対比で学生が学生らしく見えるっていうのはあると思います。お年寄り、大人、若者、子供……それぞれのキャラクターがその大きさのまま存在できるというか。私、東京に行くと、自分が小さいキューブみたいにならないといけない気がしてくるんです。街全体がそれを前提にデザインされているので、個人がキューブになって、それでやっと社会が円滑に動いていくんだなって。きっと人が多すぎて、みんな忙しすぎるから、しょうがないんだと思うんですけど、そんなキューブにうまく収まることができない人がしんどい想いをしたり、最悪つぶれていっちゃうのかも。
渡辺 京都では、活動を手伝ってくれた若い人たちが蓮くんという人に出会って、それぞれのポテンシャルをどんどん開かせていく様が見てて楽しかったです。なんせ行くたびに、みんな「就活辞めました」とかタガが外れていってるんですよ(笑)。「大丈夫か?」と心配にもなったけど、それはやっと彼らが本来の自分に戻って、それぞれの能力を開花させていくための過程なのかもしれない。そんな瞬間を目の当たりにすると、教育について考えさせられますね。
その人本来の資質を押し殺して「かくあらねばならない」っていう無言のプレッシャーは今の日本の社会に確実にあって、私はそれがもったいないなって思うんです。
渡辺 ほんとそうなんですよ! つくづく思ったんですけど、人がその人自身のポテンシャルを最大限に発揮して、楽しそうにしてる姿って、まわりに対してめちゃくちゃ有益な影響を与えるんです。何かのトークで蓮くんがいいこと言ってて。「成長したい=自分以外の何者かになりたい」っていうイメージを持ってたけどそうじゃない、「成長=本来の自分に戻っていくこと」っていう実感がある、と。まさにそうだと思って。
渡辺 そう考えると誰でも成長って簡単なんです。何かを追い求めなくても、何かを外せばいいんだから。自分のサイズに戻ればいいんですよ。
「成長=本来の自分に戻ること」。これはなかなかの至言ではないだろうか。そしてここから話題は『逆光』が孕むもうひとつのテーマへと移っていく。
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