「東京通過①」(須藤蓮)~【帰ってきた!「逆光の乱反射」】
逆光の乱反射』は映画『逆光』の配給活動が巻き起こす波紋をレポートする、ドキュメント連載企画です。広島在住のライター・小説家の清水浩司が不定期に書いていきます。
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半年ぶりに話す須藤蓮は、歯切れが悪かった。
どうにもこうにもまだるっこしいものがあった。
あの調子乗りで、不遜な自信家で、人の懐にぐいぐい入っていく人たらしで、小動物のような素早い頭の回転で浮世を渡ってきたイケメンがグチグチ言葉をこねている。
しかしそれは悪い印象ではない。当たるべくして当たった壁に、絵に描いたように頭を抱えている姿も須藤蓮であり、彼のピュアネスを表している。うーん、かわいいやっちゃのぅ。
一体どうして彼はこんなに歯切れが悪いのか? それが悪くない『逆光』ストーリーの第2章のように思えるのはなぜなのか?……
あ、ご報告が遅れました。広島での公開模様を追ったドキュメント「逆光の乱反射」、終わったはずですが帰ってきました! どうにもこうにも気になったので、東京公開が終わったタイミングでリモートで彼らの現状について聞いてみました。
まずは真夏の広島公開が終わった後の『逆光』チームの動きを整理してみよう。あれから半年間の主な動きは、以下の通り。
相変わらず制作に出演に配給に、めちゃくちゃ忙しそうである。よくこんなにマルチタスクできるなぁ、と感心してしまう。
ちなみに取材日は2月28日。つまり、ここで言う「『逆光』の東京公開に向き合った3ヶ月間」とは昨年12月~2月ということになる。
さて、その中身はどうだったのか?
ああ、歯切れ悪っ! 須藤蓮ってこんな歯切れの悪い人だったっけ?
その歯切れの悪さを読み解くキーワードは彼の発言にも出てきた「ホーム」「アウェイ」という部分に集約される。
広島公開の最終盤、須藤と話していて気になる瞬間があった。
「あー、東京に帰るのイヤだなぁ……」
彼は心底うんざりした様子でそうため息をついていた。それは半分は広島に暮らす私たちに対するリップサービスだと思ったが、半分は「まあ、そうだろうな」と感じられた。
自分のことを誰も知らない街で、イチから周囲と関係性を作り、ムーブメントを育てていく。それは非常にワクワクした冒険であるし、人生の至福の経験でもあるだろう。
しかも舞台は真夏の尾道である。開放的で、ちょっとしおれた優しい街を、Tシャツ&短パンで闊歩する。まさにフリーダム。それは若者たちにとって文字通り、何物にも囚われない時間だったはずだ。
しかし、それはやはり非日常なのである。
日常(ホーム)があるからこその非日常(アウェイ)なのである。
同時に『逆光』はホーム・東京に対するアンチテーゼ的作品でもあった。「尾道から東京に向かって公開していく」という既存とは逆の試み。アンチ資本主義。アンチ東京中心主義。アンチ効率至上主義。アンチ現行のヒエラルキー。アンチ現行の勝ち組価値観……。
巷で流通する常識に反旗を翻した浪漫派のルネサンスが『逆光』だったわけだが、彼らは東京公開タイミングで一度背を向けたはずのホームと再び向き合うことになる。改めて目にするうんざりする現実、資本主義の総本山、そのルールに縛られていたかつての自分……。
それでも須藤はホームに帰らざるを得なかった。
東京に戻ったことで、旅先のフリーダムは簡単に消し飛んでしまった。さらに東京はホームである上に大票田。「ここが勝負」「ここで勝たなければいけない(=ヒットしなければならない)」というプレッシャーが須藤の上にのしかかった。
須藤と行動を共にする相方・永長優樹もこう語る。
勝つことが正義。負けたら終わり。とにかく大事なのは結果と数字。それが出せないヤツは何を言っても負け犬の遠吠え……
楽しいか、楽しくないかではなく、勝つか、負けるか。
あれほど忌み嫌ってきた「比較」と「競争」がまた心の中を満たしはじめる。不安と恐怖に追い詰められていく。
そして1月8日、須藤蓮は限界を迎える。心が壊れる。
そう、いわゆる「アップリンク・ショック」である――と書いてみるが、一体何がいわゆるなのかは私にもまだわからない。 (いましばらくつづく)
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