見出し画像

「島根、あや庵にて③」(渡辺あや)~【連載/逆光の乱反射 vol.33】

『逆光の乱反射』は映画『逆光』の配給活動が巻き起こす波紋をレポートする、ドキュメント連載企画です。広島在住のライター・小説家の清水浩司が不定期に書いていきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『逆光』は20代の須藤蓮とミドルエイジの渡辺あや、年齢も性別も出生も違う2人の師弟のような、バディのような関係性が魅力だが、そんな中で大きなテーマとして浮かび上がってくるのが世代を越えてつながることの重要性である。

大人と若手が交流することの意味はどこにあるのか? 大人は若者にどう接して、何を伝えていけばいいのか?……大人世代の自分としては、そういうことについて考える機会が増えてきて、それをさらに突き詰めていくと「いい大人って何だろう?」「成熟って何だろう?」という問いにぶちあたる。


「東京と地方」に続いて「大人と若者」、相反するものを包括する『逆光』の脚本家はこれについてどう考えているのか?

清水 さっきあやさんは京都には素敵な大人たちが多くて、若い人を育てようとする意識が高いとおっしゃってました。

渡辺 10年前くらいまで、日本って大人になることをよしとしない風潮がすごく強かったように思うんです。東日本大震災で多少変わったというか、セレブマダムが読む女性誌に「初めての仏教」みたいな特集が載ったのが衝撃的で(笑)。だけどそれまでは人が精神的に成熟したり、信仰に興味を持ったり、あと哲学とかそういったものは無益なものだと思われてて。それよりアンチエンジングや消費に夢中で、「少年の心を忘れない」とか若さ至上主義だったと思うんです。

清水 若い頃が人生のピークで、そこからは人生ずっと下り坂っていう考え方ですよね。それに関しては個人的に気になることがあって――いま日本って街中すべてがアニメ的な女子キャラクターの絵で埋め尽くされてますよね。それもみんな幼女風で、短いスカートはいてて、従順で、胸が異様に大きくて……それって「私たちはこれを美しいと思う」という美意識の発露で。この国を挙げての臆面もないロリコン感はどうなんだろうと思うんです。そんなに無垢な少女ってありがたいかな、と(笑)。

渡辺 ははははは、確かに! 私はよく中二病って馬鹿にされてきましたけど、「人はなぜ生まれてきたのか?」とか「死ぬことの意味とは?」とかそういうテーマについて語り合うのは許されないし、とりあえず呑もうよ、みたいな風潮は強いですよね(笑)。そういう話をしないことが大人のたしなみと思われていたフシはあって。日本は人の成熟にとっての失われた数十年をすごしてきたんじゃないかと思います。

清水 歳をとることが魅力的だと思えるには、「こうなりたいな」とか「こんな大人もいるんだ」って感じられるロールモデルがいることが重要だと思いますが、あやさんにそういう人っていました?

渡辺 お2人いて、今のお茶の先生と、学生の頃の同じバイト先の普通の主婦の方なんですが多大な影響を受けてます。それといわゆる「カリスマ主婦」と言われる人たちはみんな大好きで、掃除とか洗濯とか面倒なことに楽しみを見出して、暮らしを大切にしておられる方は本当に尊敬しますね。栗原はるみさんとか。あと私は両親が教師なので教育に興味があって、内田樹先生や河合隼雄先生とかを読んできました。清水さんはどうでした?

清水 僕は誰かに師事したわけでもなく、反面教師ばかりだったというか。自分がそういう先生、先輩、兄貴みたいな人に恵まれなかったから、そこに憧れる気持ちがあるのかもしれません。

渡辺 「人生はひとつの尺度だけで測れないんだよ」って言ってあげるのが年寄りの役目じゃないですか。それは長く生きたからこそわかることで、尾道や京都みたいな古い街にはそういう大人がいるなと思います。

清水 自分も齢を重ねて、若い人たちに何か伝えなければいけないんじゃないかと最近よく思うんです。まだ未熟だし、人に誇れるような器量はないけど、年齢的にそうも言ってられない立場になってきて。あやさんはどう感じます?


渡辺 言葉にして伝えるとかは二の次三の次で、段階が必要な気がしていて。私としてはまずは自分のサイズに戻って元気になる人をひとりでも多く出していきたいんです。その上で私の経験や知見が役に立つなら聞きに来てほしいけど、まずは自分が何をやりたいか、何だったらいくらでも頑張れるか思い出してほしいんです。

清水 まずは「人」として復活することが先?

渡辺 キューブ状態の人にいくら説教しても入らないんですよね。思い込みでカチコチになってて。「自分はキューブをやめて本来の自分に戻っていいんだ」って気づかないと、必要な話って聞けないみたいなんですよ。

清水 これはあやさんが言われたのかな? 以前、大人のあるべき姿として若者に合わせておもねるのではなく、自分が突き詰めた高い目線をそのまま見せつけてほしい、ということをおっしゃってましたよね。

渡辺 ああ、それは2010年に大友良英さんがCO2映画祭で発表されたコメントに感銘を受けたときですね。業界で仕事してると「もっと売れるものを」とか「受けるものを」とかしか言われないのに、大友さんは若い監督たちに「もっと本気で創作しろ」って怒ってらっしゃった。その文章をネットで読んで私は自分までひっぱたかれた気がして、同時に「そうか! やっぱ本気でやっていいんだ!?」って感激したんです。高みを見せられるって厳しいけど、可能性を感じられることでもあって。「自分はまだこんなに足りてないんだ。こりゃあ頑張らないと」って思えることって、「まあ自分も世界もここまででしょ」って思ってるよりも断然嬉しいことだと思うんです。

清水 芸術とかアートの類型って「わかるわかると共感できるもの」とか「圧倒的にすごいもの」とかいろいろあるけど、今は前者ばかりがもはやされてる気がするんです。たとえば僕は山下達郎さんが好きなんですけど、達郎さんの音楽に対する姿勢に触れていると生きるチカラが湧いてくるんです。「世の中には素晴らしい音楽がたくさんある」と見せてもらうことは、口先で「がんばろう」とか「負けないで」って歌われるよりよっぽど人を元気にする。いい大人って「人生の歓びってそんなものじゃないよ」「もっと豊かな“その先”があるよ」って教えてくれる人なんじゃないかと思うんです。

渡辺 歳をとるって本当は今日より明日の方が1冊本を多く読めて賢くなるってことでもあるし、そんなにアンチエイジングばかり追求しなくていいと思うんですよ。若いとか美しいとかはもちろん素晴らしいことだけど、包容力や知恵、人格とか年月と共に磨いていけるものもありますよね。そっち側の重要性をこれまで社会からのメッセージとしてまったく受け取ってこなかったけど、よく考えたら私は隣にいる人が「若くて美しい」ってこと以上に、「思慮深くて優しい」とか「話してて楽しい」ってことに豊かなものを与えられてきたんですよね。なので、やっぱり自分も普通におばさんっていうサイズを黙々とやっていればいいんじゃないかと思ってます。

思わずアツく語っていたら、窓の向こうがうっすら暮れなずんでいた。自然光の日時計。日が長い時期とはいえ時を忘れて話し込んでいた。

夕方5時、今頃東京や広島ではこことはまったく違う時間が流れていることだろう。さすがにそろそろおいとましないと――ということでこの項、次回が最後です。 (あと1回だけつづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?