なんでもない日



「では、こちらで少し待っててください」


そう言って、物腰の柔らかい医療事務員に待合室のような場所に通される。

わたしは体が硬くなっていくのを感じていた。



会社から言い渡された健康診断の日付を二ヶ月すぎようやく予約をしなおすと面倒くさい、と言う気持ちと予約してしまった、と言う後悔しか残らなかった。

わたしは根っからの病院嫌いだからだ。



検査衣に着替え、受付を済ますと早速血液検査へ呼ばれる。

腕にビニールのチューブのようなものをまかれると

血の気がスーッと引いていくのを感じた。

無理だ、こればっかりはやっぱり無理。

「アルコールじゃない消毒液でお願いします」と言ったのはいいが

やはり決意が固まらない。

そもそも、血液検査に決意なんて必要なのか、とも思うけれど。

腕を消毒されるコットンの冷たさで、倒れてしまいそうだった。




テキパキと作業をこなす看護婦のおかげで
より自分はマグロになった気分になる。

つぎはこちらへ、そのつぎは左を曲がって奥の部屋へ。


言われた通りに

ぼうっと椅子に座ると、
ふと目に幼い頃に読んだ絵本が目に入った。

窓際に置かれている雑誌ラックは
表紙が見えるように三段になっており、
その一番手前にその絵本が置いてあった。


絵本なんて、何年ぶりに見るだろう。


幼い頃、わたしの家にはたくさんの本があった。

母が、月1冊保育園で注文する本をわたしが先生から受け取る。

薄い本、少し厚い本。小さい本に大きい本。

カラフルな絵は優しそうな、穏やかな空気が流れるものが多かった気がする。

そうやって本を継続的に、定期的に注文する家庭なんてわたしのクラスには

わたしくらいだった。それが誇らしくもあった。


なるほど、わたしの本好きは母譲りな訳だ。


その本を手に取るとなぜか涙が溢れてしまいそうになった。

ラックの後ろにある窓から木漏れ日が溢れ、わたしの顔を照らす。

暖かくて優しくて、穏やかな午後の光。

普通に考えれば、そんなに泣きそうなことなんてない、普通の1日だ。

なのに、なぜこうも、涙が抑えられないのかわからなかった。

最近仕事が忙しかったからかな。溢れてくる涙を知られないように顔を伏せると

先ほどから受付で、こちらの様子を伺っていた看護婦の気配が近くにあることに気づいた。

「大丈夫ですか」優しい声に、大丈夫です、とやっとの思いで答えると

受付で書類を受け取り、更衣室へ向かった。


そういえば仕事での問題は山積みだった。

思えば、仕事仕事でプライベートにこんな話をする人もおらず

ずっと思いつめていた黒いモヤモヤが煮詰まって、もう自分ではどうしようもないところまで来ていることに気づいた。

かといって弱さを見せても、見せた相手の負担になることくらいわかっていた。

そんなこと、数年前に痛い目にあって理解しているつもりだ。

だからこそ誰にもいい出せないまま、こんなことになっているのだった。



ぐるぐる考えていると、先ほどの絵本が思い浮かんで来た。

あの本のシリーズが当時のわたしは大好きで何度も何度も読んだ。

今はもううっすらとしか思い出せないが、ピクニックの話が一番印象に残っている。

あれは、男の子と女の子のリス?だったか・・・。

そもそもあの二匹の性別は?


着替え終わった服を回収ボックスに入れると

靴入れから靴を出し、ぐいぐいと履く。



今度調べてみよう。

スマートフォンを確認すると、時刻と一緒にメッセージとメールの通知が何軒か来ていた。

そのうちの一件は急ぎの用事のようだ。

目の前の全身鏡でさっと身なりを確認して、カバンを持ち直す。

特に目は念入りにチェックする。

充血した目をなるべく元に戻すために、カバンから目薬を取り出す。

さすと、冷たい刺激が心地良くてなんだか不意に頑張れる気がした。

頑張るしかないのだ、頼れる人もいないんだから、

一人でやっていくしか。


そうやって、ずっとわたしは一人で生きていくんだろうか。

ああ、いけない。またネガティブだ。

切り替え切り替え。


「さて、頑張りますか」


一人の更衣室にわたしの言葉が残されたように漂うのを感じながら、
わたしは会社へと向かって行った。

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