名もなき春
今年の春は、どこにもいかなかったな。
季節を楽しむことが好きなわたしは、窓を見上げながら
曇った空をうらめしそうにみていた。
いつもなら自分の背たけほどある桜を買ったり、
季節の花を大きな花瓶に飾る。
そんな花屋すら開いていない。なんてことだ。
日々の潤いはどこに行ってしまったのだろう。
この数か月、ろくに外に出ないままついに春が明けて、
梅雨がやってくる、と付けっぱなしにしているテレビから聞こえてきた。
なんてことだ。
こんなことになると思っていなかった、数ヶ月前に買った、春服が泣くぞ。
ショッパーに入ったままの服をチちらりとみて、また窓の外を見る。
今日は清々しいほどの曇りで、たまに雨が降る天気だ。
梅雨だなあ。
梅雨になると、いつも思い出す思い出が、わたしにはある。
社会人になって1年と少し経った頃、わたしは仕事に悩んでいた。
最初のきっかけは、仕事の量が過多になりそこから起きたミスだった。
そこからドミノ崩しのように、ありとあらゆることがうまくいかず、
わたしはついに病んでしまった。
誰にも助けを求めることができず、永遠に終わらせることができない仕事。
徹夜明けで連日連夜勤務し続け、平日は時間がないので一睡することもできず
早朝会社から戻ると、シャワーを浴びて身嗜みを整えまた会社に向かう。
その分土日は死んだように眠る。
起きたら夕方だったことがいつものようにあった。
どんなに体に悪いものをやけ食いしても、
2日で2キロは痩せてしまう。(今となっては羨ましい笑)
勤務中はアドレナリンのおかげか、不思議と眠くなかった。
それが2ヶ月ほど続いた頃、わたしの心がぽっきりと折れてしまった。
元々折れていたのかもしれない。
でも完全に、修復不可能なくらいに折れてしまったのだ。
会社に行くのが怖くて、わたしの今の状態を言葉に表すことができず
下を向きながら、泣きそうにながら会社に行った。
ある休日、わたしはいつものように家で突っ伏して寝ていた。
すると、玄関からガタン、という音がした。
ドアに備え付けてあるポストからだ。何か頼んだっけ。
二度寝をしようと目を閉じるが、気になって目が冴えてしまった。
薄暗い部屋でのそりと起き上がると、玄関に向かう。
ポストを開けると、ビニールに包まれた本のような四角い荷物が入っていた。
中を見ると1枚のDVDだった。少し前に話題になった映画だ。
誰だろう。と思ったのとほぼ同時に、彼しかいないと思った。
この部屋の存在を知っているのは、彼だけだ。
ドアを開けて周りを窺うが、誰もいない。そりゃそうか、待っていたら少し怖い。
携帯を確認すると、メッセージが入っていた。
差出人はわたしが予想した通りの彼からで、
「DVDを入れておいたよ。○○が元気になりますように」
というような内容だった。
りんごマークの白いノートパソコンにDVDを入れ込むと、起動音がして画面が真っ暗になった。
物語は、梅雨の季節、立場違いの実らない恋。それが現実にはなさそうな美しいタッチで描かれている。そしてその二人は二人だけの大切な場所でたまに会う。
物語の終盤で、少し歳の離れた女性が「わたし、あなたに救われていたの」と言った。なぜかその瞬間、張り詰めた糸がぷつんと切れてように、
堰を切ったように、わたしは泣いてしまった。
その言葉があまりにも自分に重なって、いつの間にか泣いていた。
なかなか止まらない涙を前に
物語はエンドロールを迎えていた。
その日も今日みたいな曇りだった。今にも振り出しそうな、
雲が空を埋め尽くし雲からの光はなんだか頼りなく薄暗かった。
彼は、元気でいるだろうか。
たまに一方的にくる連絡もわたしから返すことはない。
なんだか、それを返してしまうと、すがってしまいそうになるからだ。
弱い自分が彼の前だけ、出てきそうになる。
泣き虫でひとりぼっちのわたし。
その頃のわたしのことを知っているのはもはや彼だけだろう。
なんだか懐かしくなって、わたしはテレビラックからDVDを取り出した。
あの頃持っていなかった、大きめのテレビに接続されている
ブルーレイレコーダーにDVDを入れ込むと自動的に再生された。
今日だけは、彼のことを少し思い出して、思い出に浸るのも良いだろう。
ちょうどうまく切り上げた仕事を終えて、新発売のチューハイを片手に再生ボタンを押した。
テーブルに反射するテレビの光が妙に眩しく感じて、
少しだけ泣きそうになった。
物語のエンドロールで、優しい声が歌い終わると
テレビの光が一瞬真っ暗になった。
わたしはあの部屋で、彼に救われていたのだ。
彼と一緒にいれば、今とは違った人生なのだろうか。
ふと郷愁にかられ、今までの自分の選択が間違っているように思えた。
広めの1LDKで小さな画面を見つめていた自分を思い出す。
でも今は今で幸せよ、とあの頃の自分に言いたい。そうであっても、なくても。
今、わたしを救うことができるのはわたしなのだから。
ついに降り出してしまった空を見上げる。
チャプター画面になったテレビをバラエティ番組に切り替えると
わたしは、そっとDVDを取り出した。