教会を建てる人たち
僕の調査地であるマレーシア、サバ州に行くと、とんでもない数のカトリック教会を見かける。特に僕の調査地には村ごとにひとつ教会があって、日曜日になると信者たちは教会に行く。
これら村の教会はアウトステーション(outstation マレー語:stesen luar)と呼ばれていて、月に1、2回ほど拠点の町から司祭が巡回しにくる。司祭が来ないときは信徒だけの集会、集会祭儀というのがある。面積が広く人口は多くないが、広範囲にわたって人々が住んでいるボルネオ島で確立された宣教方法だ。
僕の調査地であるサバ州内陸部には14万人ほどのカトリック信者が住んでいるのだという。この数字は東京のカトリック信者よりも多い。
サバ州には至るところにカトリック教会があることがわかる。富豪が出資して建てられたという青と白のカトリック教会の看板は、幹線道路を走っていると絶対に目に入る。背の高い十字架が見えてきたらもうそこは教会だ。
調査地の田舎道を走っていたときのこと。このアウトステーションのひとつに男性が20人ほど集まっていた。マレーシアのカトリック教会は、防犯上の理由から集会のある時間以外は閉まっていることが多い。ミサがあるわけでもないのになんだろうと話を聞いてみると「教会を建てているんだ」ということであった。いま使われているという小さなお御堂が手狭になってきたのだという。たしかに隣には大きなコンクリート剥き出しの建物ができあがっていた。中には祭壇になると思われるであろう盛り上がったスペース以外にはなにもない。「きょうはセメントを慣らしていたんだよ」とのことであった。
教会は村が見える丘の上に建っている。ここ人たちの多くは農業を営んでいて、彼らが耕した水田がきれいに青空の下で映えている。ミサや集会の時間になるとこの丘の上まで信者たちがやってくる。もっとも、マレーシアは車社会でサバ内陸部も例外ではなく、丘に上がる道を人々が歩いて登ってくるほのぼのとした光景よりも、教会の駐車場に車やバイクがたくさん並んでいるところを想像してもらいたい。
彼らは「ゴトンロヨン(gotong-royong)なんだよ」と笑顔で語った。マレー世界で広くいわれる無償の助け合いのことをこういう。もっとキリスト教的なことばが出てくるのかと思ったのだが、必ずしもそうでなかったのは、このゴトンロヨンが一般的にされているからなのだろう。
ボルネオの教会はだいたいすごく質素な構造をしている。ステンドグラスどころか窓がない。鉄格子のあいだを南国の風が吹き抜けていく。教会のなかに犬や猫が走り回っていることはよくある。この日ならしたというコンクリートの床にはもうこれ以上なにも手が加えられないはずだ。ボルネオのカトリック信者たちは、キリストの聖体聖血を前にして剥き出しのコンクリートの上に跪く。ジャングルのカトリックだ。
このあたりは外から人が来ることを想定していないからか、町のいちばん大きな教会であってもホームページもない。町や村の人に話しかけてミサの時間を聞くのだが、ふだん教会に足を運ばない人だったりすると記憶があやふやだったりする。それでもこのあたりの人たちには村の教会の集会の時間は共有されていて、どこに掲示したりネットに上げるまでもなく皆が知るところだ。はじめてこのエリアに来たとき、それまでに手に入る情報がなかったので不安だったものである。
大きな建物を建てるのになにかしらの業者が入ってはいるだろうし、すべてが手作りなのかといえばそうではないだろう。それでもここは自分たちの手でつくる、おらが村の教会。質素かもしれないが、そこは紛れもない、栄光の王、神の家だ。Puji Tuhan!(主に賛美)、彼らに祝福あれ。ちゃっかり「日本に寄付とか頼めないかなあ」とは言われたが、それはご愛嬌というものだろう(本気かもしれない)。
教会をひと通りみて彼らと歓談していると「あそこに見える雪のかぶった山を知っているか?」といわれた。キナバル山である。ここからは100kmほどは離れているはずだが、目を凝らさなくともよく見える。サバ州の旗にも描かれているし、サバについて歌ったご当地ソングにはかならずその名前が登場する。富士山が霊峰不二と呼ばれたように、キナバル山も土着の信仰では聖なる山であるし、そうでなくともサバの人々にとっては特別な意味がある。なるほど、これだけよく見えるとサバの象徴にもなるはずだ。
じつはこの調査旅行の前から風邪をこじらせていて、二日に一回はぶっ倒れていた。熱は上がったり下がったり、喉の痛みも酷かったが、ここに初めて訪れてから喉の痛みがなくなった。この教会は喉の守護聖人の名をいただく。彼らとの祈りが聞き入れられたのか、それとも飲まされた地酒タパイが効いたのか、それはわからない。