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ジャウィ文字事始
現代マレー語を勉強すると、規則的にまとめられたラテン文字による正書法で学習することになる。付属記号がつかず、いちど読み方さえ覚えてしまえば簡単に読めてしまうラテン文字マレー語は、マレー半島を支配していたイギリスと、国境の向こう側のオランダ領東インド(現在のインドネシア)でオランダによって考案され、1972年からはマレーシアとインドネシアで統一された正書法が使用されるに至っている。
ではそれ以前に使用されていた文字といえばジャウィである。14世紀にマレー世界にアラブ商人によってイスラームが持ち込まれ、同時に文字も入ってきた。そのあたりからマレー語もアラビア文字を改良したジャウィ文字で表記されるようになった。
イギリスとオランダがマレー語をラテン文字化したものの、長らくジャウィ文字は特にマレー半島で使用され続け、そしてラテン文字マレー語を正式な国語の表記法と制定してからもいまなお使用され続けている。使われなくなったわけではなく、いまも生きている文字なのだ。
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ミミズがくねったような文字などともいわれるアラビア文字の系譜を引いたジャウィ文字マレー語を、ごく簡単にはではあるものの紹介していきたいと思う。
ジャウィ文字、どんな文字?
ジャウィ文字というのはざっくりいえば「アラビア文字マレー語」である。アラビア語にはないがマレー語にはある音を表すために、アラビア語にはない文字がいくつか追加されている。
アラビア語系の文字は「子音字を並べて母音字を書かない」という文字だ。言語学の世界ではアブギダと呼ばれる。正確にはアラビア文字にもジャウィ文字にも母音字はあるのだが、ジャウィ文字にかんしていえば母音の数に対して母音字が足りていない。それにアラビア文字のいちばんはじめの文字ا(アリフ)や母音字و(ワウ)を書くと、おなじ単語内でも続けて書けずにぶった切られるため、極力母音字を書かずに続けることになっている。
いままでアラビア文字系の文字を使用する言語はジャウィ文字とウルドゥー語を勉強したことがあるが、これらの言語はいずれも母音字を省略する傾向にある。そこに書いてある子音にどの母音が付くのか、母音が付かないのかというのはいちいち覚えなければならない。その言語ができないと読めない文字、と言ってもいいだろうか。規則さえ覚えてしまえば単語の意味がまったくわからずとも読めてしまうひらがなやカタカナ、ラテン文字、キリル文字、ハングルなどとは少し勝手が違う。
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たとえばこんな具合である。
تمن (tmn)
括弧の内側に書いているのが、この左側のジャウィ文字をラテン文字に転写したものである。子音が多いのがわかると思うが、これを現代マレー語で書くと以下の通りになる。
teman
先のジャウィとおなじ単語なのだが、ジャウィではeとaの文字が隠れているのである。アラビア文字というかジャウィ文字の考え方的には隠れているというよりは「そう読むもの」的なかんじらしいのだが、ともかく母音がないことでtamanなのかtiminiなのかもわからないという事態になるのがジャウィ文字である。マレー語がわかればこの子音の羅列でも読めてしまうのだが、そうでないと読めないところが具合が悪い。
ジャウィ文字を読んでみよう
ジャウィ文字を記すときはアラビア文字とおなじで、繋げることができる文字は繋げて記す、単語ごとに切り離す(分かち書きをする)、といった規則もアラビア文字とおなじだ。ひとつひとつ文字を紹介するのも面倒なので以下の図を参照されたい。
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アラビア語になくジャウィ文字にある文字は
ڠ(nga)
ڤ(pa)
ݢ(ga)
ڽ(nya)
ۏ(va)
である。赤で囲ってある字だ。ۏは英語由来などの外来語にのみ使用される。چ(ca)はペルシア語からの借用だ。
ث(tha)
ح(ha)
خ(kha)
ذ(zal)
ص(shad)
ض(dhad)
ط(tho)
ظ(dho)
ع(ain)
غ(ghain)
ق(qaf)はアラビア語由来の語彙に使われる(一部例外あり)。ラテン文字マレー語では宗教関係の語彙以外はkとqを区別しないが、ジャウィ文字で表記する際はアラビア語由来の単語ではこれらの字を使うので、これまたひとつひとつ覚えておかねばならない。
「犠牲」は現代マレー語ではkorbanだが、アラビア語由来の語彙のためقربان(qrban)と記す(但しラテン文字マレー語でもイスラームの場面に於いてはqurbanという表記がされることはある)。対して地名のMelaka(マラッカ)はملاک(mlak)と表記する。
このほかラテン文字マレー語のsやzなどもジャウィ文字表記の際にはアラビア語やペルシア語由来の語彙でこの区別をするが(sならسとﺹ、dならدとﺽ、など)、いちいち覚えなければならない反面、ジャウィ文字を覚えるとどの語彙がアラビア語やペルシア語由来かということがわかるようになる。
マレー語の母音はa、e(ə=口をあいまいに開いて「う」)、e(日本語でいう「え」)、i、o、uのむっつがあるが、これらの母音をا(alif)、و(wau)、ي(ya)とع(ain)で賄う。ただし全ての母音がこれらの文字で表記されるわけではなく、省略されることが多い。عは語頭のみにつく。
aは間違いなくاで、eとiはي、oとuはوである。どの単語のときに母音字を書くのか省略されるのかはその都度覚えるしかないだろう。
oとu、つまりوは語尾の場合は必ず書くが、語の間に入る場合は省略されることがある。もし語の間に入るとここでいちどぶった斬ることになる。語頭がoかuの場合、必ず母音字のاに続ける。orang(人)はاورڠ(aorng)、ulang(繰り返す)はاولڠ(aulng)である。
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e(ə)は省略される、というか子音のうしろに母音字がなければe(ə)と読んでいればなんとかなるところはある。
كوالا لومڤور (Kuala Lumpur)のように、すべて省略されずに書かれることもある。アラビア文字がわからない人のために分解すると
ک و ا ل ا ل و م ڤ و ر
となる 。
説明は不十分だというのは重々承知だが、いったん文字の説明はこのあたりにしておきたい。
どの文字がどのように繋がってかたちを変化させるかなどは申し訳ないが説明できないので、アラビア文字の学習書などを参考にしていただきたい。
どこで使うのジャウィ文字?
冒頭にも書いたとおり、ジャウィ文字はいまも生きている。どこで生きているのかというと、おおよそがマレー人社会だ。といっても、現代マレー人でふだんからわざわざチャットやメモをジャウィ文字で書くという人はいないだろう。まったくいないとは言わないが、よほどマレー民族主義が過ぎていたり、ジャウィ文字愛が強すぎる人くらいだろうか。
マレー人の子どもたちはジャウィ文字を学校やポンドック(イスラーム塾)で習う。小学校ではジャウィ文字の授業があるそうだが、どちらかといえば塾で習うものらしい。アラビア語はイスラームの宗教実践のうえで必要なことばなので習うのだが、同じ場所でジャウィ文字マレー語も習うのだという。
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ジャウィ文字マレー語を習う意味は、乱暴に言ってしまうが部外者からすると「マレー・イスラームアイデンティティの高揚」以外には見当たらない気がする。アラビア語は宗教実践のうえで必要な言語であることは何度も繰り返しているが、では宗教実践のうえでジャウィ文字が必要になる場面は、僕自身はマレー語でムスリムの世界に入ったことがないのでなんとも言えないものの、あまり必要のない気がする。他民族との差別化であったり、アラビア語と連続している文字を使用することでマレー人としての「聖域」を守っているふしがある。
現代ではマレー語の古典を読むときに必要になってくるだろうか。かつてさまざまな文章はジャウィ文字で記されていた。とはいえ古典に限らず、わりと最近まで広く使用されていたりする。17世紀にイギリスによってラテン文字マレー語が考案されたのだが、マラヤ連邦独立直前まで公文書がジャウィ文字で書かれているものもあったりする。ラテン文字マレー語を正式にマレー語の正書法として採用したのは独立前の1956年らしい。
ただ、それまでラテン文字マレー語がまったく使われていなかったわけでもないし、では一般的にジャウィ文字マレー語が広く使われていたわけでもない。現代マレー語の父・ザバことザイナル・アビディン・アフマドはその代表作Pelita Bahasa Melayu(詳解マレー語)という文法書を1940年にラテン文字マレー語で発表している。近代以降のマレー語の大衆向けの文章はラテン文字で、道路標識や看板、少々しっかりした公文書などはジャウィ文字といったかんじになるかもしれない。
いまでも看板や標識などにはジャウィ文字が使われることがある。政府系機関の建物に大きくアラビア文字が踊っていると思うと、よく見ればジャウィ文字マレー語だ。イスラームを信仰しアラビア語と連続する文字を使うことでマレー人の「聖域」であるとアピールし、また他民族に「ここから先はマレー人の世界」と示すことができる。
地域によってこのジャウィ文字への距離感は違う。有名どころではブルネイがいまもジャウィ文字が現役だ。公衆の目につくあらゆる文字はラテン文字マレー語と併記することを義務付けられているらしい。マレーシア国内だとマレー半島の東海岸、クランタン州とトレンガヌ州ではよく見かける。ブルネイのように併記が義務付けられているはずで、華人系商店にもジャウィ文字が記されている。たいていの場合はラテン文字マレー語も併記されているのでジャウィ文字がわからなくても生活できる。
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逆にクアラルンプールやペナン島など、半島西部などでは滅多にというわけでもないが、あちこちに書いてあるものでもない。政府機関や役所であったりイスラーム関連の施設などに書かれているくらいだ。ブルネイに近いにもかかわらずサラワクやサバではほとんど見かけた記憶がない。シンガポールでもまずマレー人関連施設くらいだろうか。タイ深南部ではジャウィ文字マレー語の教育があるというが詳しくは知らない。
ジャウィ文字ができると
文字や言語ができるデメリットというのはあまり考えられないが、メリットはある。
やはりジャウィ文字が読めることで、よりマレー・イスラームの理解につながるところであろうか。ジャウィ文字でなにかが書かれているというところは基本的にマレー人向けの情報であって、どういう場面でマレー人に向けてどのような情報を発信しているのかがわかるようになる。
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また、アラビア語だと思っていたものが実はマレー語だった、もしくはその逆だったということに気が付くようになる。どこでアラビア語を使っているのか、というのもマレー人世界やマレーシア社会に於けるイスラーム理解のための大きなポイントになるだろう(もちろんアラビア語がわかればなお良しだろう)。
現代マレー語の理解にも欠かせない。特に1972年のインドネシアとの統一正書法が使用されるまでマレーシアで使用されていたラテン文字マレー語はジャウィ文字の影響を強く受けている。
またなによりマレー人との話のネタになる。ジャウィ文字ができる非マレー人はかなり珍しいく、華人など非マレー人でジャウィ文字を使えるのはマレー文学やマレー語、歴史など人文系の研究者で必要になる人くらいだといってもいい。かくいう僕も留学中のマレー研究科で学んだ。
とはいえ僕は完璧に読み書きはできない。ジャウィ文字を書くときはジャウィ文字の学習書などを参考にするし、マレー人でも日ごろからジャウィ文字を使うような環境にいなければ「読めるけど正しく書けない」という人は珍しくない。逆にいえば読めればいいのだから、そんなに気負う必要もないかもしれない。アラビア語やウルドゥー語など、ほかのアラビア文字系の言語を学習したことがある人なら、マレー語と合わせて学びやすいとは思う。
ラテン文字マレー語での表記が確立された現代では必ずしもジャウィ文字が必要になる場面はないものの、できるとかなり幅の広がる文字であることには間違いないだろう。まずはラテン文字マレー語からになるが、ある程度学習が進んだら是非、ジャウィ文字の世界に触れるのもいいかもしれない。
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