8.フラクタルなのだ
あなたは本当に無能なのか?
もう、あなたは自分自身が無能ではないことがわかったと思う。
あなたは持って生まれた才能の種を育てて、自分の面白い人生を生きていったほうがいい。
もちろん、無理強いはしない。
でも、そうじゃないか?
あなたが自分のことを無能と思うことは、つまりこういうことなのだ。
日本は明治維新後、裸足や裸を禁止されたり、廃仏毀釈、刀の禁止、神仏分離と、これまでの文化を禁止されて、外国の文化を取り入れさせられてきた。
そして、戦後には日本は遅れていて、米国は進んでいると思わされるようにされてきた。
米国文化への憧れと、日本人としての劣等生を植え付けられている。
それはメディアでも、教育でもだ。
戦争に負けたのは日本人が悪かったからだ、ということで、ずっと反省させられてきた。
これがまさに「日本は無能だ」という植え付けだ。
それは実は我が祖父母世代だけではもちろんなく、我が両親にも深く刻まれている。
そして、私自身もその煽りをうけている。
戦争は大きな傷を代々に残している。
けれども、元来日本人の性格上まじめに辛抱強かったため、戦後は技術の進化が凄まじく、日本はブランド化するほどに、世界でも一目置かれる品質の高さを誇ることになった。
日本人には劣等生が染み付いているところに、日本ブランドの奢りがついた。
平成になると日本の技術は骨抜きにされ、令和の今では、日本ブランドと言われたものはどこに行ったのか?というほどになっている。
盛り返そうとするも、少子化に歯止めが効かず、日本の人口は減少、もちろんこれからの期待の若年層も減少の一途だ。
日本、振り回されすぎなんじゃないか?
その、振り回されている日本の縮図が私たちというわけだ。
それもそうだ、フラクタルでできている。
でも、若い人たち、これから生まれてくる子たちに同じことを感じさせていくのはおかしいと思わないか?
あなたは無能ではない。
それはわかったのだから
それぞれが変えてゆくことをしたらどうかと思う。
いつまでも、悲観的なネガティブなことを言っていないで、馬鹿になってでもやりたい事を伸び伸びとやっていけばいいと思うのだ。
率先して、やりたい事をやるのだ。
それはこれから大人になってゆく人たちに「教育・指導」するのではなく、私たちの姿ををみてもらえるようにだ。
「教育・指導」なんてしようとしたらダメだ。
これからの世界がどうなるかは先にこの世をさる私たちにはわからないのだから。
どんな時代であれ、やりたい事をやって自分らしく生きていくことを自らが実践することこそが自分の世界をかえてゆくと思っている。
だから、あなたから始めてほしいのだ。
能力・才能を存分に使ってほしいのだ。