第三巻 内なる仮想空間 4、何のために?
4、何のために?
※この小説は、すでにAmazonの電子版で出版しておりますが、より多くの人に読んでいただきたく、少しづつここに公開する事にしました。
人はいったい何のために、このようなややこしい認識の方法をとるのだろうか? 外なる世界をそのまま見ればいいではないか? 詳しいことはわからないが、もし外の世界をそのまま認識するだけだと、その場面を実際に見ていない時には、何も考えられなくなる。何処かに記憶として残しておかないとまずいのだろう。例えば、自宅にいても駅の近くのコンビニの位置が正確にわかるのは、内なる仮想空間の中に記憶されているためだ。これがなければ、駅の近くでコンビニを見ている時以外は、コンビニのことは全くわからない。それも単純でいいのだけれど、、、。
さらに、人々の喜びとか苦しみとか悲しみとか、それらのことは全て、我々の心とこの内なる仮想空間のかかわり合いから生まれる。お釈迦様が、全ては空だ言ったのは、おそらくこの内なる仮想空間の存在に気がついていたからなのかもしれない。
この内なる仮想空間と外側の世界とはコピーのように良く似ている。そうでなかったら、人の行動は的確でなく、おかしなものになってしまう。しかし、ある種の宗教家や統合失調症の人は、この内なる仮想空間のある部分を巧妙に書き換えている。そのため、現実の世界では、帳尻を合わせるために、普通とは違った行動になってしまう。なぜ、書き換えるのかは、ケースバイケースなのだろう。
宗教家の場合は、何処かに神の存在を組み込まないければならない。統合失調症の場合は、多分現実の世界がその人にとってはどうしようもなく辛いもので、そのままでは、自殺をしたりするしか逃げる方法が見つからないためだろう。それでも生きていきたい、生きるための適応として、このうちなる仮想空間を少し書き換えたのだろう。そのための代償は大きく、普通の人には彼らの行動は理解不能としか思えない。
さらに、個人の価値観などもこの仮想空間と深い関係があるのだろう。だから、他人から見たらどうみても価値のないものに、ある人は高い価値を認めることができるのだろう。趣味の世界なども同じことだ。この仮想空間は、その人の価値観とも不可分で、そのため出来上がるのに、十八歳くらいまでかかるのである。この仮想空間が出来上がることに二十年近くもかかるのだから、人間にとっては、とても大切なものだろう。多くの人が、その存在にすら気が付いていないというのは、なんとも皮肉な話だが、、、。
お釈迦様 現世はすべて空なりと これぞ内なる 仮想空間