第三巻 内なる仮想空間 5、心の病
5、心の病
※この小説は、すでにAmazonの電子版で出版しておりますが、より多くの人に読んでいただきたく、少しづつここに公開する事にしました。
俺には、小学校の頃、岩本博という親友がいた。今もいるにはいるのだが、彼はもはや昔のような彼ではない。俺は、幼い頃に少しだけ町の少年野球のチームに入っていたことがあった。俺は野球が好きだったが、チームでは最後までレギュラーになれなかった。岩本とはここで知り合った。彼は、俺と違って運動神経抜群で、いつもレギュラーでチームの花形だった。彼は同い年で、ある意味でライバルだったのだろうが、俺の方はいつもこの岩本が目標だった。俺は、ほとんどの点で岩本にかなわない気がしたが、不思議とウマがあった。野球チームはすぐにやめてしまったが、岩本との友情は長く続いた。
岩本の両親はひとり息子の彼を大事にしていたが、特に彼の親父は、この息子を溺愛していた。彼の親父は、一級の建築士で、設計事務所に勤めている。博の話では、親父さんは本当は医者になりたかったらしい。親父さんは埼玉の地主の次男坊で、東京に来て医者になるための勉強をしていたそうだ。ところが、実家は戦後の土地開放政策でほとんどの土地を失い、仕送りがなくなって上手くいかず、建築士になったらしい。自分の果たせなかった夢を息子に賭ける情熱は凄まじいものがあるそうだ。そう言う彼の顔は、いつも曇っていた。
俺は大森第三中学に進学したが、岩本は大森第八中学に進学した。その後転校してからは、あまり会わなかったが高校へ進むと、また断続的には会うようになった。俺は練馬高校で、彼は小山台高校に進んでいた。高校の格はずいぶん違っていたが、そんなことは俺たちの間ではあまり関係がなかった。しかし、あれほど元気の塊だった岩本は、高校二年生くらいになると遅刻が目立ち勉強、勉強に追われたらしい。何かの時に成績を聞いて驚いた。学年で下から数えて十番くらいの中に入っているらしい。卒業出来るんか?と思った事があった。
高校三年になるとさらにたいへんで、ほとんど部屋にこもるようになった。たまに、会って話をすると「俺は、周り四方を厚い高い壁に囲われたような所にいる夢をよく見る。どうあがいても、この壁は高く、厚く、どうしようもないんだ」。岩本を見てて、確かにそう思った。これから大学受験だが、親父は東大理三を目指し、医師になれと言っている。でも、さすがに本人も、高校での成績ではとても無理だとはわかっている。でも、親父の手前そうは言えないのだ。親父だって、冷静に考えればわかるはずなのに、どういうわけか医者の夢が捨てられない。
俺は、岩本に「家を飛び出て、どこか他で生きればいいんだ。親父なんか放っておけ!」と、よく言った。「一人っ子はそうもいかないんだ」、悲しそうに彼は言っていた。俺だったら、さっさと家なんか出たんだが、、、。人間一匹、高校卒業すればどこでも生きてなんて行ける。それが、巣立ちというもんだ、鳥だって、ライオンだって動物はみんなそうして生きているんだ。最も、これは今だから言える事で、昔はそうは思っていなかったが、、、。
岩本が、おかしくなったのは、それから間もなくだった。岩本が訳もなく笑うようになった。訳もないのに、ニヤニヤするので、気持ちが悪いから、何が可笑しいんだとよく聞いた。そうすると、昔の誰それのことを思い出して可笑しくなったとか、最もらしい話はするのだが、何かどこかがおかしい。でも話の筋は一応通っているし、、、。何かよくわからないがどこかが変だと感じた。その後は、岩本から色々な奇妙なことを聴かされた。「誰かが、俺の邪魔をしている。誰がが、俺の悪口を言ってる。誰かが、俺に何かをしろと命令している。俺の話は全部盗聴されている。あいつが来る。あいつが殺しに来る」。
ある日、岩本のお母さんから、連絡があって、久しぶりに彼の家に行った。彼は、部屋の片隅に丸くなって頭を抱えていた。そこには、かつての親友、岩本の姿はなかった。俺は、本人に納得させながら病院に相談に行った。本人は、病気でないと言い張るし、なかなか病院に行くことは嫌がった。俺だって病院なんて行きたくない。ましてや、精神科なんて。でも、素人には何が何だかほとんどわからないのがこの病気なので、どうしても専門家の見立てが必要だ。それで、本人を納得させ、連れて行きたかった。そのことは、大切だと思う。
医者の見立ては、今で言う統合失調症で、昔は精神分裂病と言った。この病気は、十八とか十九才頃に発病する場合が多く、本人は基本的に自分は狂っていないと思うから、周りの人間は本当に大変だ。周りだって話を聞けば最もらしい辻褄のあった事を言うから、おかしくないのかなあと思う時もあり、でも話のどこかがおかしい気がする場合が多い。人間の心は本当に複雑だと思う。
俺は、四十を越えるまで、この病気がよくわからなかった。でも、四十を越えたある日突然、内なる仮想空間との関係に気がついて、この病気の内容がよくわかるようになった。俺は、岩本からいろいろ奇妙な話もたくさん聞いた。そんなことがあったから、俺は人間の内にある仮想空間の存在に気がついたといってもいい。それがなかったら、死ぬまで内なる仮想空間の存在になんか気がつかなかったろう。
この内なる仮想空間は、ただ単に外側の世界の一部の正確なコピーだけでなく、その人の価値観や人生観などいろいろなものが入っていて、人間の内なる仮想空間は十八歳か十九歳でようやく完成するらしい。本人が生きる過程で、とても辛い場合がある時は、この仮想空間を一部書き換えることがあるらしい。
例えば、俺は能力があるのに、すべてうまくいかないのは、『あいつ』が、邪魔をするためだ。こうして、一度『あいつ』が仮想空間の中に登場すると、仮想空間は、現実のコピーなので、どこかで辻褄が合わなくなって来る。これが、本人の奇妙な行動や幻覚、幻聴へと繋がる。そして、一度これが出来上がるとなかなか修正が難しい。もちろん本人の強い意志があって、俺がやったように何回も意識的に習慣を変えようと強靭な努力をすれば、数ヶ月で修正は可能なのだろうが、本人の強い意志が多くの場合は得られない。その意味では、内なる仮想空間を修正することは、極めて難しい。
簡単に 仮想空間変えられぬ しっぺ返しが あな恐ろしや