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貞久萬「散花は水に流れ行く」感想

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◆春Qの近況
 漏水の出どころがわかり一安心でした。

◇「散花は水に流れ行く」あらすじ

「流水」
 瞬間記憶能力を持つ誠は、生まれてから今までのすべての記憶を完全に保持している。周囲から能力を悟られることもなく穏やかに生活してきたのだが、最近、妻の智子の様子がおかしい。
 物忘れが多く、互いの記憶に齟齬が生じる。
 やがて失禁してしまうようになる。誠に謝る時、「まこちゃん」ではなく「おかあさん」と呼ぶようになる。
 病院に入った智子は、誠が誰かわからない。忘れることのできない誠と、次々と忘れていく智子は、面会場所の窓から同じ景色を眺める。

「落花」
 一緒に暮らしている頃、智子自身も自分の異常を感じ取っていた。年を重ね、夫にときめくことは無くなったが、そばにいてほしいと思っていた。智子は夫の愛情を求める時、誠の肩にどん、と頭をぶつける癖があった。
 次第に若年性認知症の症状は悪化し、智子は誠と同じ時間を過ごせなくなる。病院で知らない男と面会することになった智子は、彼と窓の外を眺める。やがて吸い寄せられるように、どん、と彼の肩に頭をぶつけた。


 そのほうが通りがいいと思ったので、作中「痴呆症」と書かれるところを「認知症」としています。

 うん。切なくて、読んでてちょっと泣いちゃった。なんだろね~。これまでの積み重ねが強制的に白紙化されることで浮き彫りになる関係性というものがこの世にはあって、現実問題そういう状況に直面すれば誰もがきつい思いをすることになる。しかしその時こそ私達はふだん見慣れた景色の美しさに改めて気づかされるんだよな、と思いました。(長いうえに意味のよくわからない感想!)

 見てわかるところから触れていきましょう。本作は「流水」と「落花」の二部構成になっていて、前者は瞬間記憶能力を持つ夫・誠を、後者は若年性認知症の当事者である妻・智子を中心として描かれます。

 だから読者はひとつの出来事を誠と智子双方の視点から読むことになる。

「えー、そんなの見てないわ。一人で見たんじゃない」
 これも忘れてしまったのかと誠はおもった。しばらく前から誠がむかしのことを話しても知らないと言い返すことが多くなった。歳をとれば物忘れも多くなってくるが、それでもまだ四十代後半だ。ひょっとして若年性痴呆症なのではないかという不安もよぎる。

貞久萬「散花は水に流れ行く」(流水)

「えー、そんなの見てないわ。一人で見たんじゃない」ひょっとしてわたし以外の人と見たのかしらと智子は考える。だからといってヤキモチを焼くほどのことでもない。結婚してもう十年以上も経つと浮気しなければ若いアイドルに熱中しようがそんなものは空気みたいなものでもあった。最も誠はアイドルに熱中してはいない。それを思うとアイドルに熱中していたとしたらちょっとはヤキモチを焼くのかもしれないと思ったが、ティッシュで鼻をかんでいる誠の顔を見て、やっぱりそんなことはないなと思いなおす。

貞久萬「散花は水に流れ行く」(落花)

 全然畑違いの話をするようですが、春QはBLや異世界恋愛などを読んでいててこういう書き方と出会うことがある。ある事件を一話では主人公視点、二話で相手視点で切り替えて(あの時は何も言わなかったけど内心ではこんなことを考えていたのだ・・・!)と、読者に明らかにする方法ですね。

 いわゆる一般文芸の恋愛ものでは見ない書き方だと思っていたからまずそこにびっくりした。でも春Qは最近、一般文芸の恋愛ものを全然読んでないから今どきは普通なのかもしれない。(ちなみに吉本ばなな、山田詠美、江國香織、市川拓司、井上荒野あたりが好き!誰かオススメを教えてくれー!)

 本作は恋愛小説の括りでいいのか?という点に関しては、いったん飲み込んでください。そりゃー智子は作中でこう言ってはいますが・・・。

 無神経なんだからと智子は思った。どうしてこの人と結婚しようと思ったのか、それは一時の気の迷いだったのか。思い出そうとしたけど思い出せなかった。もうすっかり忘れてしまっていた。でも一緒にいるのが当たり前になっている。

貞久萬「散花は水に流れ行く」

 どん、と誠の肩に頭をぶつける。一緒にいてどきどきすることもないが、見えないところに行ってしまうとすこし寂しくなる。離れていた時間だけ、そばにいる時間を感じたかった。

貞久萬「散花は水に流れ行く」

 いや恋愛小説だと思う。妻が魅力的だし。完全にシュミの話ですが春Qはこういう妙齢の女性をヒロインに設定するの、すごくいいと思います!

◇時制について

「流水」と「落花」で時間の描かれ方が違うんですよね。誠は瞬間記憶能力者なので全ての場面が地続きになっている。それに対して智子は若年性認知症を発症しており(実は明言されてないが春Qはそう解釈して話を進めている)場面転換に一行空けを用いる。

 芸が細かいな~と思う反面、「流水」編は読んでてちょっと混乱する部分があった。

「お茶でよかった、自然に乾くでしょ」智子は気楽に言ったが、誠はティッシュペーパーをつかんだ。
 誠は床を拭いていた。
 板張りの床でよかったと、濡れた床を雑巾で拭きながら誠はおもった。畳だったらどうすればいいのか途方にくれていたかもしれない、いやそれ以前に怒りを覚えたかもしれない。達観するほど誠は人間ができていない。
「いい加減にしろ!」「本当のことを言っただけじゃん、何が悪いの」「本当のことだからって、言って良いことと悪いことがあるのがわからないのか」

貞久萬「散花は水に流れ行く」

 ティッシュペーパーをつかんで床を拭く。その手にあるものはティッシュではなく雑巾なので、違う時の出来事だとわかる。さらに「人間ができていない。」という文末からセリフ「いい加減にしろ!」が入るので、これもまた別の出来事。

 連想する記憶から記憶に飛び移る書き方なんですが、うーん、好みは別れそう。ていうか春Qは読んでて焦った。もちろん最後まで読めば意味がわかるようになっているけれども、ほら、春Qとかバカだからさ、テクニックとして敢えてやっているのかそうじゃないのかわからないんだ。(あれっ、読み間違えてるかな?)と思うと前の場面まで戻ることになって、集中力も途切れるし、迷子になったかのように心細くなってしまう。

 って春Q、難しい本読む時はいつもそうなっちゃうんですけど~😆

 逆に誠が「若年性痴呆症なのではないかという不安もよぎる」とはじめのほうで設定を明かしてしまったのは、種明かしが早すぎるように感じた。これやるなら一行目から『マイワイフの記憶がオカシくなってしもた~』とか言ってもらったほうが読む側としては心の準備ができて助かる。(※誠はマイワイフとか言わないっ)

 とか好き勝手言いつつ、この始まり方は好きです。

 エンジンを切るとラジオから流れていたパーソナリティーの声が途切れて、車内は静かになった。誠はシートにもたれかかると運転席の窓から見える建物を見上げた。ここからだと見えるのは三階まで、それより上の階は見えなかった。建物の窓には人影は見えない。その代わり、建物と建物の隙間からは昼間の月が見えた。ため息のような息をはくとペットボトルを手に取って一口飲んだ。微糖と書かれていたが誠には甘すぎた。

貞久萬「散花は水に流れ行く」

 まず音という客観的な情報から入り、主人公のいる場所が明らかになる。それから主人公と読者は同じ視界を共有する。からの「微糖と書かれていたが誠には甘すぎた」がいいですね。味覚という本人にしか知り得ない情報が開示されることで、物語らしさが立ち上がってくる。

 春Qはここで登場する建物のこと、初読時には「ああ誠が智子と一緒に住んでいるマンションを外から眺めているのね」と思った。でも違うんですよね。「危なかった」と書いている通り、冒頭の誠は飲み物をこぼしていないんです。(「流水」終盤でも「車から降りるとさっき見上げた病院への入り口へと歩いていく」とある)

微糖とはいえ、こぼせば水拭きしないと乾いてもベトベトするだろう、危なかった。最近のペットボトルは原価を安くするためか、それとも潰しやすくするためだろうか、むかしと比べて柔らかくなっている。ちょっと強く握ってしまうとぐちゃりと潰れてしまう。そういえば智子もおなじようにこぼしてしまったな。誠はむかしのことをおもい出した。それは結婚記念日の一週間後のことだった。智子がペットボトルを握りつぶしてしまったのは誠が急ブレーキをかけたせいだったので智子にひどく怒られてしまった。家に帰ると誠は濡らした雑巾で拭き取って後始末をした。そんなに怒らなくてもいいのに、とおもう。それでも結婚してから智子はずいぶんと丸くなった。付き合っていた頃はもっと怒りっぽかった。
 助手席から体を入れてドリンクホルダーの穴のなかを拭き取っていると、うしろから声がかけられた。

貞久萬「散花は水に流れ行く」

 現在、車の中で飲み物をこぼしそうになる。昔(結婚式の一週間後に)、智子が同じようにこぼしてしまったことを思い出す。さらに結婚してから智子はずいぶんと丸くなった、付き合っていた頃はもっと怒りっぽかった、と過去と大過去を比較する。

 さらに「助手席から体を入れてドリンクホルダーの穴のなかを拭き取っていると、うしろから声がかけられた」のは結婚して十年以上も経った時のことなのです。かなり時制に無理をさせているけれど、致し方あるまい。誠は過去にあった出来事を忘れることがないので、全部の出来事がクッキリハッキリ同一平面上に置かれているのです。

◇どん、

 このあたりのやりとりが可愛い。

「わたしがいろんなことを忘れても、まこちゃん、あなたがわたしの代わりに覚えていてね」
「全部覚えてるから大丈夫だよ」
「ほんとに。いつもいいかげんなんだから。じゃあ去年の今日のこと覚えてる?」
「去年は……朝食は食パン二枚トーストにしてマーガリンを塗って食べた。前の日のシチューの残りをレンジで温めて。お昼は……」
「そんなことじゃないの」
「夜は昨日結婚発表した俳優が主演したドラマを一緒に見た。智子は面白いって言ってたけど、僕はあまり面白いとは思わなかったなあ。視聴率も悪かったし」
「あ、思い出した。あれってもう一年前のことだったのね」

貞久萬「散花は水に流れ行く」

 忘れられない夫と忘れる妻。正反対な二人ですが、なんかトボけたところがよく似ている。違う場面では、本に出てくる言葉の意味がふたりともわからないなんてこともありました。(ちなみに誠が「おつはり」と読んだ漢字は「乙張り」だと思われます。これは「メリハリ」と読むので、つまり誠も智子と同じくらいわからなかったのだ・・・)

 でも智子は誠に頼りがいのある夫であってほしいし、そんな夫にあーだこーだ言うことに喜びを感じてもいるのだろうな・・・。智子、仕事はしてないのかな? なんかバリバリ働いてそうな印象がありますが。

 そんなパワフルな彼女が、誠のことをわからなくなってしまう。この大きすぎる段差があるから「どん、」が生きてくるんだよなあと思いました。時の流れは何もかもを変えてしまうけれど、変わらないこともありますね。そーいうの世間一般じゃ愛っていうと思います。きゃ~💕


次回の更新は10/24の予定です。
見出し画像デザイン:MEME

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