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赤木青緑「生きるに尽きる」感想
「文芸くらはい」はシロート読者・春Qが文芸作品を読んでアレコレと感想を書く企画です。感想を書いていい作品は絶賛募集中。詳細はこちら。
残暑お見舞い申し上げます。まだまだ暑い! とはいえ風の乾きと雲のかたちは秋の気配を感じさせます。夏風邪など召されぬようご自愛くださいね。
◇「生きるに尽きる」あらすじ
すれ違いざま、神から「余命一年である」と宣告された主人公(余)。残される妻のことだけが気がかりだったが、特にほかに思い残すことはない。「ほう、そうか」とうなずいた主人公は、思いを巡らせた末、普段通りに一年を過ごすと決めた。
一年が経過した。
余命宣告を受けたときと同じような道を歩いていると、前方から黒ずくめの男が近づいてくる。余は彼を「通り魔か」と思ったが、逃げもせず歩き続けた。しかし彼はすれ違いざま「ごめん、ミスっちゃった」と言って、何事もなく通り過ぎた。
神のミスで余命宣告を受け、ミスの訂正でやっぱり生きることになった。事の次第を知った妻は泣いてよろこんだけれど、主人公は「ほう、そうか」とうなずいた。
主人公の一人称が「余」。ちょっと珍しいですね。あるていど年いったひとの述懐を演出するためだとして・・・「私」じゃダメなのか?と思って、いくつか見比べてみました。
余は驚かなかった。なぜといって、そんな気がしていたからである。有り得るな、と。
私は驚かなかった。なぜといって、そんな気がしていたからである。有り得るな、と。
あー、これは・・・。
余命一年であると妻に告げたら妻は泣き崩れた。ほぼ怒っていた。運命の理不尽さになすすべなく打ちひしがれていた。わたしも死ぬといわれた。余はあなたは生きてくださいといった。
余命一年であると妻に告げたら妻は泣き崩れた。ほぼ怒っていた。運命の理不尽さになすすべなく打ちひしがれていた。わたしも死ぬといわれた。私はあなたは生きてくださいといった。
わかった、わかった。「余」だとほどよくとぼけた雰囲気になるんだな。「私」だと、一般的であるぶん事態の深刻さが増してしまい、ショートショートらしいサクッとした読み味が損なわれてしまう。
ちなみに「小生」「儂」「吾輩」だと、なんか主人公の性格が変わって読めた。「小生」は頭がよさそうだし、「儂」は我が強くて野望がありそう。「吾輩」はもう猫か怪盗なんだよ。(ぜーんぶ春Qの偏見・・・)
文体は句点が少なくてサラッとしている。比喩はなく、感じたこと、起こったことをありのまま書くスタイルだ。
地球上では毎日だれか生まれてだれか死んでいく。自分の心臓がどういう理屈で動いているのかわからないのだから、すれ違いざまに余命宣告されることだってあるだろう。私たちは死と隣り合わせで生活している。そのリアルさを寓話に落とし込むとこういう書き方になるのかなと思った。
◇余の受容
ところで、このお話には時制があいまいな箇所がある。
●序盤
・先程、曇天の道で神から余命を宣告される。
・とぼとぼするでもなく背筋を伸ばし明日へと歩いて行った。
・まるで死ぬことなど知らないように普段通り過ごした。
●中盤
・余命一年。くるものなら早く来い。
・余命一年であると妻に告げたら妻は泣き崩れた。
・ショックを受けながらも日々を重ねることによりショックも和らぎ受け入れ態勢へと移行し・・・(略)
・そして一年が経過した。
●終盤
・余は今日死ぬ。
・今日も余命宣告を受けたときと同じような曇天の道を・・・(略)
・次の日朝起きると余は生きていた。
注目したいのは序盤のおわり、「まるで死ぬことなど知らないように普段通り過ごした」。春Qは読んだとき(なるほど、宣告を受けた日から一年を普段通りに過ごしたのだな)と思ったのだけど、そのあとに「くるものなら早く来い」と感じ、妻への報告が続く。
ということは二通りの読み方がある。
・余命宣告を受けてから何日かを普段通り過ごした。その後、時の流れを焦れったく感じたり妻に報告したりしている。
・余命宣告を受けてからずっと普段通り過ごした。中盤ではその期間に考えたことや起こったことをまとめて説明している。
個人的には前者を推したいッと、春Qは考えています。紙のうえではこう述懐してはいるけど実際には全然心穏やかでなかったほうが萌えるからです。いちおう根拠となるのは、次の一文。
ショックを受けながらも日々を重ねることによりショックも和らぎ受け入れ態勢へと移行しもう生きれるだけ生きるしかないと吹っ切れ生きた。
ショックを受けたのは確かなんですよ。それに、どーですかこの勢い。読点なし、ら抜き言葉で畳みかけてくる。
この前に妻への報告があり、妻は「わたしも死ぬ」と言い、主人公は「あなたは生きてください」と返すやりとりがある。
構成的にみるとこのお話のクライマックスって、通り魔だと思ったひとから「ごめん、ミスっちゃった」と言われるくだりと思うんですが、主人公の心がもっとも揺れ動いているのは、この妻とのやりとりでしょう。
主人公は愛妻家です。自分の余命を伝えるかどうかについては迷いがあったはず。限られた一年を大切に過ごしたいけれど、彼女を悲しませたくはない。打ち明けるまでどれくらいかかったんだろうなあ。「余命一年であると妻に告げたら」とあるので、一か月はかかってないと思うのですが。
・・・って、後者の可能性も全然あるんですけれども。
ただ春Qが思うに、この主人公が本当にメンタル強者で余命宣告に動じてなかったら、このお話はショートショートよりもさらに短い、いわゆるマイクロノベルになっていたんじゃないか? たとえばこうだ。神に余命一年と宣告された。ほう、そうか。一年経って手違いとわかった。ほう、そうか。
つまり、後者を採用した場合「なにげない毎日をともに暗いときは暗く明るいときは明るく明暗を持って生きてゆく」のような人生訓めいた文章が出る余地がなくなる・・・と春Qは考えるわけです。
たとえば聖徳太子の十七条憲法で「和をもって尊しとなす」というのがありますが、当たり前にそれができていたらわざわざ文字にしないでしょう。聖書でも「貧しいものは幸いです」というけれど、生活するうえではとてもじゃないけどそう思えないからわざわざ書き残してある。
同じように、主人公には文字に書き起こせないほどの葛藤があり、この物語の大部分を占めるのは自分に言い聞かせたいことのほうなんだと思う。この小説が一人称で淡々と書かれた意味もきっとそこにある。自分の身に起こったことを遺書や遺言書、あるいは自伝のような、綺麗なかたちで後に残そうとしたんじゃないだろうか。ただし以上のことは先述のとおり個人的な萌えを発端とする推測なので、ぜひ他の読者の意見も聞きたいところ。
◇「余」から「俺」へ
お話の終盤では文章が柔らかくなる。「どうやって死ぬのだ? タイムリミットになりぽっくり逝くのか?」という自問自答にはなんともいえない可笑しみがある。そこから通り魔(?)と対峙したところで緊張感が少し戻り「ごめん、ミスっちゃった」で再び緩む。
余談ですが、冒頭の「余命一年である」に対して「ごめん、ミスっちゃった」は物凄い温度差がありますね。重いっ。からの軽いっ。随分と分厚い紙一重だ・・・。
次の日朝起きると余は生きていた。
ここも面白いですよね。「ごめん、ミスっちゃった」と言われた後も主人公はじりじりと一日を過ごしたのです。朝起きることができてようやく確信をもって妻に伝える。そして・・・。
「俺、まだ生きるみたい」
俺!? ・・・そう、「俺」なのです。この主人公、実生活では「余」とか言わない。
もしかして想定していたより若い主人公なのかなーと思いました。確かに妻に伝えたとき「運命の理不尽さ」という言葉が出てきてもいる。これはたとえば93歳のお年寄りには使わない言い回しですね。
春Qは気持ちがじんわりしました。「俺」は突然の余命宣告を「余」として引き受けたのだなあと思った。通り魔に向かっていけたのも「俺」と「余」が解離していたせいかも。・・・まあ現実的には逃げて通報すべき場面ではあるけど! 通り魔の犠牲者なんていないほうがいいんだから!
そして妻が「よかったあ、よかったあ」と泣いてよろこぶと、また飄々とした態度に戻る。
余は「ほう、そうか」とうなずいた。
たぶんお話としては、主人公の心情が冒頭からどう変化したのか(あるいは本当に変化してないのか?)明確にしたほうがいいんでしょうけど、ショートショート的には、この終わり方が圧倒的に綺麗なんですよねー・・・。
あ、でも恋愛脳の春Qとしては、最後の一日に妻に関する言及が全くないのには少し違和感がありました。そのせいで「次の日朝起きると」が夢オチみたいに読めてしまうので・・・アレッそれとも通り魔にあったのは夢だったのかな。あああ、どうもはっきりと言えない。春Qも主人公のように「ほう、そうか」で締め括りたいよお!
次回の更新は8/30の予定です。
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