アンニュイ【4】
「きれいでしょう? 」
ハルカはすでに暮れてしまった真っ暗な海を見つめながら、こっそりマコトにだけ聞こえるように言った。彼女に気づいたのはタケルの方だった。小さな灯台の下で、彼女は瓶ビールの空き瓶を持って立っていた。あれ、あれだよ、きっと、とタケルが言い終わらないうちにマコトは駆け出した。革靴を履いていたタケルはずんずんとマコトに距離をあけられてしまったので、歩いて行った。街灯の少ない海町に、マコトの息づかいと靴音がかん高く響いて、まるでハルカを急かしているかのようだった。
「きれいって、この海のこと? 」
「あんなにきれいな夕焼けは、初めて見た」
「そうだね、きれいな夕焼けだった」
「ほら、あそこにウミネコが飛んでる。きれいねぇ」
タケルはようやく追いついて、海っぺりで灯台の明かりの影になっている二人の絵を見ながら、岸の船に隠れていた。僕は、今はもう彼女の何者でもないのだから、という思いが彼を影に追い詰めていた。タケルにはマコトのようなまっすぐな正しさはなかったのだ。ハルカの酔っ払ったような高い声がきこえるぎりぎりのところで彼は待っていた。
「ウミネコなんて、見える? 」
「あら、あんなに素敵に飛んでいるじゃない、ふふ」
「もう暗くて危ないから、一緒に帰ろう? 」
「帰るって、どこに? あたしはやっとここに帰ってこられたというのに。マコトくんって、なんにも知らないんだね、あたしはここに、帰りに来たんだよ」
タケルは、ああと思った。ハルカは前にも帰るというようなことを言っていたことを思い出した。あれも確か、風だけが鋭く冷たい、冬の暖かい日だった。私には帰るところがわからないと、どうしたらいのかどうにもわからなくなってしまう日があって、だけど何に向かうのかもわからない憤りみたいなわだかまりがずっと心の真ん中を占めていて黒い気持ちになるんだと。そういうときに、僕のことを思うと、僕と一緒に歩くことだけを思うと、ハルカはとっても楽になれると言っていた。そういう時、タケルはどう言っていいかわからなくなってしまって、ただ、彼女を抱きしめることしかできなかった。
「今日はタケルにここを教えてもらったんだ。ここは、君の故郷なの? 」
「タケルがいるの? 本当? 」
「ああ、本当だよ、さっきまで一緒に居たんだ」
「タケル? タケル? どこにいるの? 」
ハルカの酔いの声は静かな静かな海町に反響して、ねえ、ねえ、とタケルを呼ぶ声がウミネコのように鳴って、タケルはそっと船から出て、そのまま音も立てずに二人の元を去った。今彼女に会っても、僕には何もしてあげることができない。僕は彼女に何も与えることができない。僕がやっていたのは、彼女からいろいろな美的なものを奪い取ることでしかなかった。僕は彼女の唇から白さをもらっていたんだと、彼は後悔した。彼は夜の闇に去っていった。
「ハルカ、タケルはもう行っちゃったんじゃないかな、あとでまた連絡してみよう? とにかく、風邪引くからほら、家に帰ろう? 」
「マコトくん、あたしはね、あの夕焼けが、見えている間はここにいなくちゃいけないんだよ。それはそういう風に決まっていることなんだよ。だからあたしはまだ帰れないの。君は正しい人で、あたしは正しくない人間だったから、一緒にいるのはとても楽なことだった。それは、壊れた時計を時計屋さんに持って行くのと同じくらい日常的なことだった。ねえ、マコトくん、あの夕焼けが沈んだら、あたしは一人で帰るよ。そのためにあたしはわざわざここまで来たの」
「何言ってるかわかんないよ、もうお酒もないんでしょう? 夕焼けなんて、とっくに沈んでるよ、早く、帰ろうよ」
「そう。マコトくん、君は本当に正しい人だったけれど、あの夕焼けが見えないのね、あの夕焼けが見えないのなら、君にはあのウミネコも、きっと時計屋さんも、何にも見えないのでしょうね、ねえ、マコトくん、君の白さは、本当に太くって誰にも曲げることのできない強さを持っていたね。ああ、沈んじゃう、夕日が、沈んじゃう。それじゃあね、あたしは、一人で帰るね」
「ハルカ…?」
彼女が作った波紋にはウミネコたちが集まって、ごちゃごちゃと騒ぎ立てていた。帰りの最終バスに乗ったタケルはさよならと独り言を言って文庫本を開いた。泳ぎが苦手な春果は、カーネーションと子猫が好きだった。心の不吉なわだかまりには名前がなかった。