ザクロ色のなみだ

 オリオン座が光る、香織と拓磨は狭い六畳間でカップラーメンが出来上がるのを待っていた。オリオン座、見えないかなあと拓磨は言ってベランダに出ると、香織の座っているソファは急に温もりを失って星屑が入ってこようとするのをモスグリーンの遮光カーテンが遮った。
 今、何時かな? とベランダから帰って来た拓磨に香織が問うけれども返答はなくて、ただ、曇っていて星なんて見えなかった、と拓磨は落ち込み、ピピピとスマホのアラームが三分間が終わったことと、今の正確な時間を教えてくれた。

 最近、仕事は? ちょっとは楽になった?
 全然。全部、わたしに任せてみんな早帰り、あ、香織さん遅くまでお疲れ様っす、とか言って。ふざけんなって話よ。それで、倒れないでくださいねー、なんて、どの口が言えたんだか。

 と香織はウーロン茶を飲み干し、テーブルに音を立てて置いた。どん。それから拓磨は必死に言葉を選んで彼女を労った。お疲れ様。大変だね、それは。うん、うん。今日はゆっくり休んで。お酒はー、飲むと起きれないから飲まないんだよね。なんか、美味しいもの食べいく? お腹いっぱい、だよね。会社の飲み会終わりだもんね、ごめんね遅い時間に。じゃあ、とりあえず今日は、帰ろっか。え? いや、うん。じゃあ、そうしよ、もう少し、ここでゆっくりしよう。

 拓磨は香織のことを想っていた。それはHDDがデータのことを思うのと同じくらいの強度で、ワカメが味噌汁のことを思うのと同じくらい切実だった。だから、仕事で疲弊した彼女を誰よりも大切にしたかったし、誰よりも癒してあげたいと想った。しかし、拓磨にはそれが徒労であるような気がしていて、本当は香織は、一人で早く家に帰って、シャワーを浴びて、眠りについた方がいいのではないかーー。
 香織は、ふう、とため息をついてから置かれたウーロン茶を一気に飲み干して、立ち上がった。

お家、いける?

 拓磨は驚いてしまって、え、と頓狂な声をあげた後で、ごめん、なんて?と聞き返した。彼女は何度も言わせないでと前置きしてから、拓磨の家で、少し話さない? と言い直した。知的で静かな目は拓磨の燃えたぎる目を刺した。
 それでね、昨日は始発で帰ったの、始発で帰ってそのまま九時出勤。そう。寝たのは始発を待つまでの三十分くらいの仮眠だけ。そう、そう。ひどいでしょう?あ、コーヒー、飲み飽きちゃったから淹れなくていいよ、ごめんね、ありがと。え、そうだなあ、緑茶、ある? うん。粉でもなんでもいいよ。うん。そう。今日はだからくたくた、ほんと、こんな大変だと思わなかったよ、もっと学生してればよかったなあ、羨ましい。ねえ、最近拓磨氏はどうなのよ、女っ気は。えー、全然なの?ふーん。

 酒のつまみしかないけど、と拓磨はチョコレートと柿ピーを皿に出して一緒に彼女にお茶を出した。彼はすでに二本目のビールを飲み終えていた。香織はその皿が自分が彼にプレゼントしたものであることに気づいてホッとした。私は確かに、社会人以前も存在していたのだーー。

 香織、あのね。
 あっつい! お茶! やけどしちゃった。
 あ、ごめん!大丈夫? 
 うん、急いで飲みすぎた。
 それでね、香織、あのさ。
 あ、今日あのドラマやってるんじゃない? ほら、こないだラインで話したやつ
 お、そうだね。つけてみようか?
 うん、見よ見よ。

 テレビドラマは、オリオン座が美しく輝いていて冬空の下で二組の男女のキスシーンが描かれていた。それはとても美しい絵で、拓磨も香織もすっかりそれに見入っていた。それから二人は、そのテレビドラマの続きがどうなるかという話や、その二組がどういう感情でそれぞれキスをしていたかという話をした。それから香織の提案で二人は部屋に置いてあったカップラーメンを食べることになって、拓磨は程よい温度になるように上手にやかんで湯を沸かした。

オリオン座、見えないかなあ。

カップラーメンを待つ時間は、本当に人それぞれで、それは人生であるとまで言った詩人がいた。ある者は読書をし、ある者はずれた時計を直し、ある者は小便をする。またある者は高校時代の卒業アルバムを眺め、ある者はオナニーをし、ある者は爪を切る。拓磨は、それがたまたまオリオン座を見るという行為だった、というそれだけのことだ。それはテレビドラマの影響だったかもしれないし、拓磨は香織とキスをして、それから夜を共にしたかったのかもしれない。

香織、あのね。
拓磨、ごめんね。わたしは君のこと、大好きだし、今日も会えて嬉しかったよ、君は優しいし、君といるととっても癒される気がする。今日の残業なんてなかったような気がして来たし、一人で見るドラマよりずっと面白かった。ほんとに、ありがとう。だけどね。私たち、ここまでだと思うんだ。ここから先も前もない、ここが全てだと思うんだ。
でも。
でも、って君が思うならもう私はあなたとは会わない方がいいのかもしれない。君のことは大好きだけど寝れないし、付き合えない。これって、そういうタイプの問題なの。わかる?
わからない。
ごめんね、ごめんね。だけど、ここまでだと、思うんだ。私は。

二人は白い湯気を上らせながら、伸びてしまった麺を啜った。その音は泣き声のようにも聞こえたけれども、オリオンは決して涙を流さなかった。

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