インポッシブル
「男は、マウスピースにそっと唇を当てると豪快にサキソフォンを吹き出した。その爽やかな音色は港町の風に似て辺りをブルーに染め、男の周りはふうわりと柔らかな香気が立った。聴いている人の誰もが知らない、彼の新曲は、まるで絵画の世界に引き込むようなメロディーをなぞり、男の描いた絵画の奥深くまで人々は迷い込んだ。男は演奏をやめた。人々は我に帰る。
『今、君たちが迷い込んだ世界が、白の世界か黒の世界か、それを知るのが生きると言うことだ』
人々は白だ黒だと一斉にざわめき合う。男は嘆息してもう一度サキソフォンに口づけし人々を惑わす。絵筆は進み始めにあった美しい女性の絵画は真っ黒になっていき、それからその黒を白の絵筆が染め始める。人々はその大きなカンパスに向かって自らの手を各々の好きな絵の具の色に染めてペタペタと手形をつけ始めた。
『そうだ。その先に白の世界があるのか黒の世界があるのか見極めろ。それは君たち自身が作らなくてはならない。僕がもう一度サックスを吹く。それが合図だ』
男は曲の続きを吹き始める。人々はステージの上に視線を移しそれから目を瞑る。見えるのは新しい世界で、それはこれから作らなくてはいけなかった」
サックスなんか吹けないじゃない?
書けばいいからやめたんだ。
なによ、それ。
書けばいいんだ、僕は絵も描けないし音楽もできないけど書くことだけはできる。
ふうん。
そして書ける人間はその物語で人々を導かなくてはいけないんだ、白の世界に。
大変そうね。
まあまあね。
でも、あなたらしいわね。
何が?
諦めて、サックス吹けないところが。
コーヒー、飲む?
紅茶がいいわ。
紅茶にしよう。
「ステージの上で男は気分良くサキソフォンを吹き、観客はそれぞれの帰路に着いた。家庭があるものも、恋人と一緒のものも、一人で酒を飲みにいくものも皆一斉に、ステージを離れた。後には、一人の男と黄金のサキソフォンだけが、悲しげに残った」