失われた時を求めて

 東京のおじさんの家は、六畳一間の小さな部屋を本棚が囲んでいる。
わたしは東京へ出かけるといつもそのおじさんの家に泊まって、オススメの本を二、三冊借りて帰る。田舎では読書くらいしかすることないだろ、とおじさんは言って、読み終わったらまたおいでと笑う。わたしはそういう風にまたおいでと爽やかにいう人を身近に知らないから毎回どきりとしてしまう。田舎とは、そういうところだ。おじさんみたいなクールな男は一人だっていない。

おじさんは髭を伸ばしているけれど、なんだかいい匂いがする。金木犀とかそういう花の甘い匂いじゃなくて、落ち葉をかき集めた自然の匂いというか、昔どんぐりを集めた森林のような匂いがする。わたしはそれが大好きで泊まりに行くたびに夜はおじさんと一緒の布団で眠った。そのことをお母さんに自慢したらこっぴどく叱られたけど、どうしてだろう。それからそのことはわたしとおじさんの秘密。の、はずだったんだけど、おばあちゃん(おじさんとお父さんのお母さん。おじさんはお父さんのお兄ちゃんなんだって。変な感じ。)が死んでからは、おじさんはわたしを布団に入れてくれなくなった。代わりに夜は、おじさんの書いた絵とか、おじさんの好きな音楽をレコードで聞かせてくれたりした。ビートルズのオブラディ・オブラダは小学校の給食の時間とかに流れていたけど、おじさんの家でレコードの軋む音と一緒に聞くと全然違う音に聞こえた。このジョージの低音が聞こえる?とおじさんは言いながらわたしの似顔絵を描いてくれた。

お父さんはわたしが高校生になってからはわたしを一人で東京へやらなくなった。東京の大学で一人暮らしをする、と言ったらじゃあ、家族で引っ越すというのだ。弁護士をしているお父さんはこの街にこだわる必要はない、と髭も生えていないツルツルの顎を触りながら言う。ビールで酔っ払った時を見計らって東京へ行くことを打ち明けたのに、全然よってなかったんだ。おじさんのとこに行くといろんなお酒の種類を教えてくれるけど、お父さんはビールしか飲まない。エビスしか飲まない。

「ねえ、おじさん、わたし、東京で暮らそうと思うの」
「そうか。でも、お父さんがいいって言うかな?」
「似顔絵できた?」
「ああ、できてるよ、この間はモデルになってくれてありがとうね」
「お父さんなんか、どうでもいいの。おじさんはどう思う?」
「おじさんの方がどうでもいいんだよ。君は、お父さんの子供なんだから。おじさんも君のことは大好きだし、東京に来てくれたら嬉しいけど、君のお父さんが悲しむことはしちゃダメだ」
「でも」
「ほら、じゃあ今度はこれを貸してあげるよ」

その時借りたプルーストの長い小説をわたしはまだおじさんに返せないでいる。地元の大学の法学部に進んで、わたしは弁護士になった。お父さんの事務所で手伝いをしながら働いている。
その時もらった似顔絵は今もわたしの引き出しに入っていて、裁判に疲れると時々それを見ておじさんのことを考える。その純粋な目にどきりとする。
ねえ、おじさん、わたしはこれで良かったのかな?



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