ブラック・アンド・ホワイト
僕は以前、暗黒なるものは強い力を秘めていると書いた。悪は強い、それは本当のことだ、変わることのない事実だ。それはまるで、ビールが麦からできているといったようなことと同じようにそうだし、僕たちにはそれについてあれこれ考える余地さえ残されていない。麦芽をアルコール発酵させたものがビールだし、ぶどうの果汁をアルコール発酵したものがワインだ。それ以上でも以下でもない。
悪は美しさだと思っていた、それは僕がまだ幼かった頃のことで日本はそのときひどく混乱していた。僕が中学生になった年のことで、列島には溢れるほどの悪意と、塩水が散乱していた。だけど、と僕は思った。だけど、黒に身を浸してしまえばきっともう何一つ思い悩むことはないのだろうと。黒くなるために大きな力が必要なこともわかっていた、黒には腕力が必要だし、白は知性のみが支える。そんなことは十五の僕にだってわかっていたことだ。
僕が早朝の街を歩くとき、仕事を終えたハイヒールの女は盲目になってタクシーに乗り込み、明日の客のことを思ってうんざりしながら煙草に火をつけるが運転手が嫌そうな顔をするので彼女たちはじゃあ、窓を開けてよ、と尖った声で叫んでから気色悪い汗のついた太ももをハンドタオルで拭う。僕はそのことを知っている、ビールを飲む唇には小さな気泡がいくつかついて、ぱちりと消える。東京タワーはまだ赤く輝いていた、スカイツリーより好きだなと呟く彼女に僕もだと伝えると、でもいつかは消えてしまうんだよねと寂しそうに笑って僕の肩に彼女はもたれた。今日はどうだった、と僕が尋ねたときには彼女はもう気を失っていて、だから僕はその手に持った煙草を受け取って二、三口だけ吸ってあとは消した。首都高速の車線変更が彼女のはだけたシャツからのぞいている乳房を揺らした。
東京タワーが白黒になるのは一体いつのことだろうと僕は考える。東京タワーができたとき、日本にはカラーテレビがなかったのだ、東京タワーはきっと白黒の方が居心地がいいに決まっている。懐かしい白と黒だけの世界に飛び込んで、彼女はまた眠りに就くことだろう。ふと、フロントガラスを叩く音が聞こえてなんだと顔を上げると、三月の深夜とは思えないにわか雨が降りだして、ドライバーも驚いているようだった。飛ばさなくていいですから、安全運転でお願いしますね。僕は白だ。
消えた煙草はまだ白い部分が残っていて、先端の黒い煤が悲しげだった。彼女はううんとうなされていた。僕は彼女の膝に手を置こうとしたけれども、今夜一晩中触られたくもない相手に随分触られたようだったのでやめた。早く家に帰ろうと思った。白い朝がやってくる前に帰らなければ、彼女は朝が嫌いだ。
ティファニーの紙袋を持った彼女は美しい寝顔で、ー子猫のように閉じた口には取れかかったグロスが光り、無理に上を向かされたまつげは含羞草のようになって、眠たい目が腫れぼったくピンク色に染められているー 眠っていて、それは永遠の白さのようにも思えるけれども、一つの害悪もない黒であった。白と黒の話はこれで最後だ。後には何も残らない、燃えて、消え去る。彼女とは恋愛の話をよくした。人のことを好きになるのって、すごく体力のいることだけど、すごく楽しいんだよと彼女は教えてくれた。僕は、小説を書くのと似ているね、と言った。そう? すごく体力がいるけれど・すごく・楽しい。それは素敵ね。うん、とっても素敵なことなんだ。尊敬するわ。僕も君を尊敬してる。雨?そう・みたいだね。怖い。怖い? ねえ、運転手さん、飛ばして頂戴? 彼女はとても黒い所にいて、そしてとても美しかった。サイドミラーに映って、東京タワーが見えた。